今回とりあげるのは、2025年早稲田大学高等学院中学部の国語です。
例によって分析というより雑感です。
「悪いことはなぜ楽しいのか」戸谷洋志
今年の早稲田中でも、戸谷洋志氏の「生きることは頼ること『自己責任』から『弱い責任』へ」 が使われていました。
出典がかぶることはよくあることですし、筆者は同じでも異なる書籍、そして試験日も同一日でしたので何の問題もありませんが、出題者の国語の先生としてはどう感じるのでしょうか? 私なら絶対に嫌です。
早稲田中の文章もそうでしたが戸谷氏の文章は読みやすいですね。
この文章では、トマス・ホッブズの思想を、わかりやすい例とともに説明し、「自己中」は善でも悪でもないと説いています。
ところでホッブズといえば、17世紀前半のイギリスの思想家でしたね。
1615年に「リヴァイアサン」を著わし、人間が平等な権利を持っていて、「万人の万人に対する闘争」にならないようにするために、国家という「独裁者」と社会的な契約を結ぶことで、国家に主権を移譲していると述べました。
のちの社会契約論の萌芽ですね。
ただし、このホッブズの思想は、王権神授説に変わって、絶対王政を擁護することになってしまいましたので、いわゆる「民主主義」とはなりませんでした。何せホッブズによれば、「革命」「抵抗」はあり得ませんでしたので。
まあ、1615年、日本ではまだ江戸時代がスタートしたばかりの時代ですからね。その当時としては革新的な思想だったのかもしれません。後にロックは、人民には抵抗権や革命権があり、人権の一部を国家に委ねているにすぎないと説き、ルソーは、人々の契約主体は国家ではなく人民共同体にあると説きました。
こうした思想史は、辿っていくと実に面白いのですが、さすがに小学生に授業できないのが残念です。
中学受験では、せいぜいルソーの「社会契約論」、モンテスキューの「法の精神」に触れる程度です。
読解がしやすい文章でしたので、記号選択中心の設問に答えることも難しくはなかったでしょう。
「紺と黄のいろどり」壺井 栄
壺井栄といえば、「二十四の瞳」を読んだことのない人はいないでしょう。
と思いたいのですが、生徒は読んでいないですね。
こういう、小学生の時に読まねばならない本を読まないで、いったい他に何を読んでいるのか疑問です。たぶん何も読んでない気がします。
古典的名著好きの私としては、こうした小説が入試に出てくるとなぜかほっとします。
私がいわゆる「古典的名著」が好きなのは、「時間」の試練を耐え抜き、生き残った本だからです。そこには普遍的な人間の本質が描かれていると思います。
「新しい本」「今どきの世相を反映した本」も大切ですが、それだけだと、何か偏る気がします。それにしても、「今売れている児童文学・青春文学」のいったいどれくらいが、50年後・100年後も読み継がれるでしょうか。
さて、この「紺と黄のいろどり」は、1955年に発表された本です。
文吉・・・戦争孤児
わたくし・・・・文吉を生後間もなくひきとった母親。
キクオ・・・文吉の幼稚園友達。父子家庭
物語は、文吉とキクオの交流を主軸に、それに対する「わたくし」の気遣いや感想が描かれています。文吉もキクオも、普通に考えれば不幸な身の上ですが、それを感じさせません。最後にはキクオに新しいお母さんができ、まるで血のつながった母子のように仲良くしている場面が描かれています。
ドラマもなく、不幸なトラブルもなく、淡々と物語は進みます。
設問も非常にオーソドックスなものでした。記号選択主体ですが、不要にひねっておらず、かといって簡単すぎず、この学校の受験生レベルに合った良問だと思います。
★今回、kindleから本を出版しました。
当ブログで書いた記事を大幅に加筆修正したものです。
ぜひお読みください。