ここのところ連続して慶應普通部・慶應中等部・慶應湘南藤沢の国語の問題を見てきましたので、バランスをとるために? 早稲田中第一回・第二回の問題をとりあげます。
いつものように、分析というよりは雑感です。
「見つけたいのは、光」飛鳥井千砂
登場人物は3人です。
亜希・・・30代半ばで1歳の子供と、ブラック飲食勤務の夫。妊娠が原因で派遣を切られ、求職中。感情的にふるまい被害者意識が強い。
茗子・・・30代後半、結婚しているが子はいない。会社でチームリーダーをしているが、育休・妊娠で休んだり時短の部下に振り回されている。やはり精神が不安定。
三津子・・・40歳、二児を持つシングルマザーで大手ゼネコン勤務。子育てブログを掲載中。
簡単に言ってしまうと、三津子のキラキラ子育てブログの読者が亜希と茗子です。文章は、この3人が小料理屋のカウンターで論争している場面です。
正直言って、読んでいて私はうんざりしました。
登場人物が魅力的ではないからです。
社会や周囲に対する不満をそれぞれが感情的にぶつけあっているだけだからです。
それでも若干三津子がマシなのは、年齢からくる落ち着きなのでしょう。
おそらく、同世代の女性が読むと共感する部分も多く、おもしろく読めるのかもしれません。
私は、小説はお芝居だと思っています。
舞台にはセットと登場人物。
芝居が始まっても、状況はすぐには見えてきません。登場人物の動きやセリフ、セットなどをヒントにして、少しずつ状況が理解できてきます。
場所や時間経過も大切です。そうして場面が変わるとき、人間関係も変化することが多いからです。
物語文読解の重要なアプローチです。
さて、この小説では、料理屋のカウンターに女性が3人、強い口調で自分が受けた仕打ちや感情についてぶつけ合っているのですね。まあ、飲み屋での会話なんて、男だって似たようなものです。仕事や上司、部下の愚痴や世の中に対する不満など。
こんなお芝居、私は見たくないなあ。
そして、小6男子も見たくないでしょうね。そもそも全く共感できないと思います。
設問は、抜き出しと記号選択だけですので平易です。
文章全体をきちんと読解せずとも解ける問題でした。
「生きることは頼ること『自己責任』から『弱い責任』へ」 戸谷洋志
戸谷洋志氏は、30代の新進気鋭の哲学研究者です。自己紹介には、
「私は哲学・倫理学を専門としており、ハンス・ヨナスを主要な研究対象としながら、それに連関させる形で、より広範的に技術思想および未来倫理学の研究を行っています。また、教育・社会連携活動として、哲学対話も携わっています。」
とありました。
この文章は、ナチスドイツによるユダヤ人虐殺を題材として、「道徳性」「試行すること」「自己責任」「強い責任」「無責任」などについて論考しています。
すでに良く知られている題材ですので、筆者の主張についていきやすい文章でした。論旨も明快です。
ところで、「ハンス・ヨナス」という哲学者はドイツ在住のユダヤ人でした。ハイデッガーの弟子です。ところがハイデッガーがナチス党に加盟したことを契機にイギリスに移住、ユダヤ系ドイツ人部隊の一員としてナチスと戦います。戦後はイスラエルに居住し、やがてアメリカへと拠点を移しました。
その思想をまとめることは困難ですが、技術社会における社会問題や倫理的な課題について論じていると私は理解しています。たぶん浅薄な理解です。
「お探し物は図書室まで」青山美智子
実は、青山美智子氏の小説は、中学入試で定番です。
開成をはじめとして、青山学院や浅野、栄光、市川などで見かけました。
・文体が平易
・ドラマチックすぎない
・大人の問題・悩みを扱う
・短編が多い
このあたりがよく使われる理由だと思います。
この「お探し物は図書室まで」も連作短編集です。街にある小さな図書室。悩める大人がそこに立ち寄ると、聞き上手の司書さんが悩みを聞いてくれ、1冊の本を薦めてくれる。それを読むうちに悩みが解消に向かう。
この「いかにも」な設定と展開が「安心して読める」「安心して出典に使える」のでしょう。
問題文に出てくる「俺」は30歳のニートです。高校卒業後にイラストレーターの道に進もうとして挫折します。彼は司書に「進化の記録」という本を薦められ、ダーウィンの名声の陰にいたもう一人の学者、ウォレスの名を知ることになります。陽の当たらなかったウォレスに共感する「俺」ですが、司書からウォレスも評価されていた学者であること、そして彼らの周りにはもっと大勢の「名も残さぬ」学者がいたことを諭されるのです。歴史に名を刻むことより、誰かの人生の中で心に残るような絵が1枚でも描けたら自分の居場所になる。「俺」はそこに思い至ります。
文章も平易ですし、設問も抜き出しと記号選択だけですので、かなり簡単でした。
「何のための『教養』か」桑子敏雄
桑子敏雄氏は70代の哲学者です。出典は5年ほど前に出版されたものです。
教養は幸運なときには飾りであるが、不運のなかにあっては命綱となる。
このことばは、古代ギリシアの医大な哲学者、アリストテレスが語った・・・・
「教養」と訳したのは、ギリシア語の「パイデイア」という言葉である。・・・・「教育」という意味をもつ。
これが出だしです。
私の大好物の「教養」にまつわる文章で、とても含蓄に富む文章なのですが、いかんせん「読みづらい」のです。
難解な文章ではありません。かなり平易に言葉を選んで書かれています。論旨も明快です。
それなのに「読みづらい」理由は、おそらく筆者の知的レベルと私の知的レベルが乖離しているからなのでしょう。
次々と展開される筆者の考えに、ついていきにくいのですね。
・教養は飾りとなり命綱となる
・飾りはギリシア語で宇宙と秩序を意味する
・人間は運に左右される
・選択の存在こそ人間が自由であることの根幹である
・選択には三種類ある
・わたしたちは所与としての人生のうちにある
・所与と選択が人間が存在する条件である
・人生にはその他に遭遇という領域が広がっている
・遭遇は選択ではないが選択肢を用意してくれる
・遭遇は困難な状況をもたらすが、それもまた所与である
・命綱とは避難所である
・理系の専門家は文化的教養人であることを求められる
・現代の若者が身に着けるべき教養は人間の根としての教養である。
こんな流れで論理が展開します。
これ、小6男子がどこまで理解して読解できたのかは甚だ疑問です。
問になっている傍線部周辺だけを見て解答する「解法テクニック」を使うしかないでしょう。
あまり生徒には勧めたくはないテクニックですが、限られた時間の中で解答するしかない入試ではやむを得ないと思います。
こうした「哲学」的な文章も多く入試で見られるので要注意ですね。