元SAPIX 中学受験のプロ peterの日記

中学受験について、プロの視点であれこれ語ります。

【中学受験】国語読解力の正体とは?

中学受験において、それぞれの科目の学習には「方法論」というものが存在します。塾の教師によって多少の違いはあるものの、そう大きな差ではありません。ゴールが同じですので、多少のアプローチの差があれど、そこまで大きな違いにはならないのです。

しかし、どうも国語については方法論がまとまらずに、先生により言っていることがずいぶん違うという印象があります。

今回は、「私の考える」読解力についてお話します。

本を読んでも読解力は身につかない

「うちの子は本は好きなのに国語で点がとれない」

「うちの子が国語が苦手なのは本を読まないからね」

よく聞きますね。

しかし、そうではないのです。

一般に、「本を読む」ことはとても大事なこととされています。それは真理です。

しかし、「読解力」を構築するためには「読書」は役立ちません。

例として、フランツ・カフカの「変身」をとりあげてみます。

「不条理文学」の最高傑作として名高い作品ですね。

ちなみにチェコのプラハには、カフカを記念するスポットがいくつかあります。

巨大なカフカの頭が回転する像が有名ですが、こちらもなかなかシュールです。プラハのユダヤ人地区にありました。そうです、カフカはユダヤ人なのです。ドイツ語で教育を受け、チェコ人の社会とユダヤ人社会の狭間で育ったことが作品に影響を及ぼしています。

ちなみに、チェコといえば牛肉が美味しいのです。プラハで食べたこのハンバーガー、あまりのおいしさに3回も食べに行ってしまいました。黒いゴム手袋が写っていますが、これはハンバーガーを注文するとついてきます。これをつけて食べないと、肉汁がとんでもなくあふれ出て、手がひどいことになるからです。

閑話休題

さて、「変身」の冒頭はこの文章から始まります。

ある朝、グレゴール・ザムザが不安な夢から目覚めると、彼はベッドの中で恐ろしい毒虫へと姿を変えていた。彼は甲羅のように硬い背中を下にして横たわり、頭を少し持ち上げると、こんもりと盛り上がった茶色い腹部が見えた。その腹部は弓状の硬い節で区切られており、今にもずり落ちそうになっていた掛け布団が、かろうじてその上に乗っていた。巨体に比べて哀れなほど細い無数の脚が、彼の目の前でなす術もなく虚しく動いていた。

ドイツ語の原文から私が適当に訳しましたので、あまり良い文章とはいえないところはご勘弁を。

ポイントはこちらです。

甲羅のように硬い背中

腹部は弓状の硬い節で区切られ

細い無数の脚

ここから想像される虫の種類は何でしょう?

ゴキブリ/シデムシ/ゴミムシダマシ/ムカデ/ダンゴムシ

実に様々な候補があがり、議論されてきました。なかには、「物語の最初は幼虫で、途中で甲虫の成虫に変態した」という意見もあります。

原文の「Ungeziefer」という単語は、「昆虫」を指す言葉ではなく、人に嫌われる害をもたらす小さな生き物(虫や小動物等)を意味する言葉で、この曖昧さはカフカの狙い通りといったところなのでしょう。

つまり、「読書」としては、どんな生き物を想像しようと良いわけです。日本語訳では「害虫」「毒虫」とされることがほとんどですので、読者が最初に想像した「気持ち悪い虫」のイメージで読めばよいだけです。私は、最初に読んだとき(たぶん中学生)、「ゴキブリ」をイメージしました。大嫌いな虫の筆頭だからです。

しかし「読解」となるとそうはいきません。

〇太った腹、節が見える

〇背中は固い

〇たくさんの小さな足

〇自分で寝返りも打てない不自由な体

〇体の幅が広い

〇投げつけられたリンゴが背中にめりこんだ

これらから推測される虫は、ゴキブリとダンゴムシの入り混じったようなものでしょうか。

つまり、「実在しない」が正解です。

そもそも出版時に、カフカ自身が本の表紙や挿絵に虫の姿を書かないように強く指示していたそうです。

つまり、「読書」なら、読者が真っ先に思い浮かべた不快な虫が正解です。

しかし、「読解」なら、「実在しない虫=不快な何かの象徴」が正解です。

 

「読書」は、きわめてパーソナルな体験です。一冊の本を、どう解釈しようとどのように読もうと、全ては自由です。つまり一つの物語であっても、百人の読者には百通りの物語があるのですね。

しかし「読解」はそうはいきません。多様な解釈の可能性を消去していって、「一つの解釈」に落とし込む作業が「読解」となるのです。

 

読解力とは

前述したように、「読解力」は、「読書する力」ではありません。

読解力というのは、限られた情報から的確に内容を見ぬく力とでもいいましょうか。

ちょっとやってみましょう。

 

「また来たの?」

絵里が本から目をあげずに言った。勇人は気にせず、絵里から椅子一つ分隔てた席に黙って座る。他の生徒たちの姿は無い。急いで給食を食べた後は、皆校庭でボールを追ってでもいるのだろう。生徒たちの影が校庭に黒いボールのようになってうごめく様子を勇人は想像した。

「それ、おもしろいよ」

絵里が勇人が開こうとした本をちらりと見て言った。それだけのことで、絵里がその本を読んだ過去の時間を共有できた気がした。

さて、この文章から何がわかるでしょうか?

まず、登場人物は勇人と絵里の二人です。学生のようですが、小学生なのか中学生なのかわかりますか? ヒントは、「給食」です。小学校なら給食率がほぼ100%、中学校でも公立中学は同様に9割以上ですが、私立中学は給食のところはほぼありません。おそらく1割程度だと思います。ここから、小学生か、公立中学の中学生かのどちらかであることがわかります。中学生の場合は、昼休みは部活の練習をする子が多いので、校庭でみながボール遊びをしているのは小学校であることが推測されます。

次に、物語の舞台ですが、これは学校の図書室でしょう。他の生徒たちの姿が無いことから、人気のない図書室、という設定がうかがえます。

季節についてもある程度わかります。校庭で遊ぶ生徒たちの影がボールのようであることから、太陽高度が高いことがわかるからです。夏かその前後とみなすべきでしょう。

最後に絵里と勇人の人間関係ですが、勇人が絵里のことを「気にしている」ことがわかりますね。そして絵里はそれを「嫌」ではない。恋心とまではいえないものの、少しだけ距離の近さ、あるいは近くなりたいという雰囲気が感じ取れます。「また来たの?」ということは、勇人は何度か絵里のところへ足を運んでいるのです。隣ではなく、椅子一つ分空けたところに座ったところに、二人の距離感が表れています。また、絵里という子が昼休みを図書室で過ごすというキャラクターであることもわかります。

だからといって、「内気でおとなしい少女」とまで考えてはいけません。それがわかる描写がどこにもないからです。

この二人が同学年なのかどうかはわかりません。勇人のセリフが無いからですね。絵里が小6,勇人が小5でも通用しそうです。

つまり、「読解」ならば、「二人は同級生で」と読み取ってはいけないのです。

 

こうした「読解」は、正直いって楽しくはありません。「読書」なら、「この二人、この後どうなるの?」と素早くページをめくりたくなるのに、「読解」ではそうはいかないからです。

自由に気のむくままに歩く散歩が読書だとすると、読解とは、歩く道の幅や信号の間隔、歩道の整備具合や道端に咲く雑草の種類まで見落とさないように歩く「探索」のようなものなのです。

「読解」が好きになるためには、「探索」が好きにならなくてはなりません。

そのためには、「探索」のやり方を学ぶ必要があるのです。