
記述力向上についての考察です。
日本語を外国語取得に置き換えてみると
私たちが「国語」を学ぶとき、そこに大きな誤解があることに気が付かなくてはなりません。
たしかに「国語」は「日本語」です。普通に日本に暮らしていれば、別に特別な勉強をしなくても自然に身につく。ついそう考えてしまいがちなのです。
そこで、逆に考えてみることにしましょう。
私たちが、たとえば英語を学ぶときはどうするでしょうか。
(1)英語圏で暮らしていればとくに勉強しなくても自然に身につくものだ
これは大きな誤解ですね。
日本で暮らす日本人が「国語」が得意とは限らないように、英語圏で暮らしているだけでは真の「英語」は身に付きません。そこで身につくのは「流暢な会話力」だけです。
リスニングとスピーキングが鍛えられるだけといってもよいでしょう。
これだけでは、「高い国語力」が身につくはずもないことはすぐにわかります。
(2)英語のシャワーを浴びる
これも一時期流行りました。大量のネイティブ英語を聞き続けるのです。「英語耳をつくる」と言われるといかにも効果がありそうな気がしますが、これで高い英語力を身に着けた人というのは、他の努力も並行していた人に他なりません。(1)同様、リスニング能力は向上するでしょうけれど、だからといってスピーキングにつながるかどうかは微妙です。
(3)たくさん話す
これが日本人に最も欠けているとされています。間違えてもいいからとにかくたくさん話すことが大切だ。よくそう聞きますね。たしかに、アメリカで出会った日本人留学生たちにそうしたタイプがよくいました。積極的にアメリカ人の友人をつくり、連れ立ってよく遊びに行っているのです。「英語力=コミュニケーション力」と定義するのならば、高い英語力を身に着けているといえるでしょう。しかしその会話内容は「幼稚」であることがほとんどですね。拙い英語、間違った文法、少ない語彙でも、とにかく話すほうが「勝ち」であるという考え方はあながち間違ってはいないのですが。
しかしここにも大きな誤解があります。内容が問題なのです。
優れた内容、聞きたくなる内容について話すのならば、別に流暢でなくても人は耳を傾けます。逆に、いくら流暢でも中身が伴わなければ聞いてはもらえません。
(4)たくさん読む
もともと英語教育が日本に導入された明治以降、欧米のすぐれた技術・文化を日本に導入することが急務でした。そのために大量の書物を読む必要があり、それが日本の「英語教育」の下地となっていきました。
これはある意味王道の学習法であり、現在でも「多読」という名称で実践されています。
読書により、教養が身につくのは確かです。話すべき内容も深まるというものです。
しかし、これが可能なのは、すでに「大人としての英語力」を備えた人でしかありません。英語初習者が読める本は、「幼児向け」「子ども向け」の易しい本になります。これをいくらたくさん読んだとて、「教養」は高まりません。
(5)書く
ネットが無い時代には、「アメリカ人と文通」することが推奨されていました。「文通」もはや死語ですね。今はネットを通じてリアルタイムで海外と繋がることができるのですから、もっと活用されてもよい方法のような気がするのですが、あまり聞きません。
ある程度英語力がついてくれば、「エッセイライティング」が有効です。ただし、そのレベルまでたどり着くのが困難なのです。
こうして英語学習に置き換えることで、国語力向上のカギが見えてきたと思います。
リスニング・スピーキングについては、日本に住んでいる以上問題ありません。
残るのは、「リーディング」と「ライティング」ですね。
読むことの意義
私自身、小中高大と学生時代には誰よりも大量の読書をしてきたと自負しています。もちろん上には上がいますので、読書偏差値60くらいかな?(こうして何事もすぐに偏差値に置き換えたがるのは職業病です)
この読書は、別に「国語力を高める」ことを目的とはしていませんでした。好奇心のおもむくままに、ただひたすら乱読を重ねていただけです。ふと書店で手に取った本がお面白ければ、その作家の全作品を読破し、友人が読む本が気になれば自分も読み、本の中で別の本が紹介されていればそこにも手を伸ばし、とそんな具合です。
ただ、意識はしなくとも、自然に語彙は身に付いた気もしますし、教養というほど大仰ではないですが、いろいろな知識の断片が蓄積したこともたしかでしょう。
やはりインプットが十分でないとアウトプットはできない、これは真理です。
ただし、いくらインプットを増やしたところで、そのまますぐに「アウトプット」につながるものでもないのです。
アウトプットするためには、それなりの努力が必要となります。
書くことの重要性
アウトプット、すなわち人に何かを伝える方法は、「話す」ことと「書く」ことの2つしかありません。(音楽や絵についてはここでは触れません)
どちらも高度なスキルが必要なのですが、そこには大きな違いがあります。
「話す」スキルというのは、今目の前にいる相手がどう受け止めているのかをリアルタイムで把握しながら話す内容や話し方を変えるスキルのことです。これが欠けていると、ただ原稿を棒読みするだけの話者となり、何も相手には伝わらないのです。
「書く」スキルというのは、別の難しさがありますね。「文字情報」として残るものを書くのですから、ミスに対する許容は「話す」よりもはるかに小さいのです。少しのミスも許されないと考えましょう。さらに、今目の前にはいない「読み手」をどう意識するのかという問題もあります。相手の反応がリアルタイムでわからないわけですから、そこを想像力で補うしかないのです。「これは中学生には少し難しい表現だからかみ砕こう」「これでは小学生には理解できないからわかりやすい例え話を入れてみよう」といった具合に、想定される読者像を考える力が求められます。
「書き方」にも気を使いますね。一過性の話し言葉以上に、書き言葉は細心の注意が求められます。
また、「書いた」物には筆者の知性や品性がにじみ出ます。
私が毎日読んでいる新聞に、著名人のコラムがいくつか連載されています。筆者は様々な分野で活躍している立派な方々ばかりです。しかし残念なことに、最初の数行を読んだだけでそのあとを読む気が失せる文章も多いのです。読者を全く意識していない内容であったり、自分の自慢話が書き連ねてあるだけだったり、あるいはあまりにも幼稚な文章と内容であったり。「この人がこんな文章しか書けないのか」と思わされることもよくあります。文章って本当に怖いですね。
書いた文字数に比例する
「書く力」を伸ばすためには、「書く」しかありません。
そして、長文を書く前に、まずは短文を書くトレーニングが必要です。
40文字の文が書けない生徒には80字の文は書けません。
80字の文が書けない生徒には、400字の文章が書けるはずもないのです。
以前から感じていたことですが、日本の国語教育にはこの「書く」トレーニングが圧倒的に不足していると思います。
小学生のときに何を書かされたか覚えていますか?
・作文
・日記
・読書感想文
だいたいこの3つでしょうね。そしてそれらを「どれくらい」「積極的」に取り組んだか覚えているでしょうか?
少なくとも私はこれらが「大嫌い」でした。作文については「教師受け」しそうな内容を書くのでおもしろくありません。日記を書く習慣が無いので、夏休みの日記の課題は困りました。読書感想文も大嫌いだったのです。せっかく楽しい読書なのに、「感想文」という狭い枠組みに落としこまされることで、読書がたちまち「つまらぬ」色褪せたものになる気がしたものです。まして「課題図書」を与えられるのも嫌でした。
こう文字にすると、なんとも「可愛くない子ども」でしたね。先生方もさぞかし手を焼いたことでしょう。
生徒たちに聞くと、今でも小学校での「書く」トレーニングはこんなもののようです。
中高生になると、「レポート」が加わります。
大学入試でも、「論文」「エッセイ」が求められる試験が多いのです。
そして、だいたいの生徒たちがここで躓きます。
語句をきちんと使いこなすトレーニングをしていないので、「伝わる」文章以前の段階、つまりまともに文が書けないのですね。
例えば、小学生の頃から、毎日「1文」のきちんとした文を書くトレーニングをしていたら。あるいは「100字」程度の文を毎日書いていたら。
どれだけ「文章力」が向上するでしょうか。
私の指導の根幹には、この「きちんとした文章を書く」ことがあるのです。
そのために「記述特訓教室」も開いていますし、本も書いています。
ご興味のある方は、ぜひHPをのぞき、本も読んでみてください。
