
よく、「あの子は地頭がいい」っていいますね。
でもこの「地頭」っていったい何でしょう?
地頭とは?
どうしても職業上、「地頭」という字面を見ると、鎌倉時代の「地頭(じとう)」しか浮かびません。
「地頭がいい」「頭がいい」、この2つの違いは何でしょう?
とくに辞書的に明確な定義の差は無いみたいですね。
おそらく慣習的にこういう使い分けではないかと思います。
「地頭がいい」・・・生まれつき頭が良いこと。もともと頭の回転や理解力に優れていること。
「頭がいい」・・・賢いこと。豊富な知識や見識を蓄えていて、問題解決能力に優れていること。
「地頭がいい」のは、先天的な要素であり、「頭がいい」のは後天的な努力が感じられます。そういえば、子どもについては「あの子は地頭がいい子だ」とは聞きますが、大人に対して「部長は頭がいい」とはいっても、「部長は地頭がいい」とはいいませんね。大人の世界では、先天的な「地頭のよさ」よりも、後天的な「頭のよさ」が求められているということなのでしょう。
そもそもこの「地頭」という語句、使われるようになったのは最近です。だいたい20年ほど前から雑誌・書籍等で使われるようになったようですね。
「地〇」という語句を他にも考えてみます。
「地声」・・・本来の声。普段から無意識に出る自然な声。
「地毛」・・・もともと生えている自分の髪。
やはり、「もともとの」「本来の」「生まれつきの」といった意味で使われるようですね。
推測ですが、おそらくそこから連想して、「本来の頭の働き」といった意味で使われるようになったのではないでしょうか。
「知能指数」の「知能」と同じような意味だと思います。ただ、「知能が高い」「知能が低い」という使われかた、とくに「低い」ほうの使い方をすると、発達障害・知的障害と関連づけて捉えられてしまいかねません。
「うちの子は私に似て地頭がよくないから」
「うちの子は私に似て知能が低いから」
全くニュアンスが違いますね。
そのため、「地頭」という漠然とした表現が好んで使われるようになったのでしょう。
ちなみに、「知能指数」は「優生学」と結びついた負の歴史があることには注意が必要です。
地頭のいい子
私の周辺(中学受験界隈)では、「地頭のいい子」とは、もともと頭の回転が速く理解力に優れている子を意味し、「地頭の悪い子」とは、そうではない子を意味します。
もっとも、いくらなんでも他人様の子に対して、「あいつは地頭が悪い」とは使いません。それは非常識というものです。もし使われるとすると、「A君は地頭は普通だが、努力を続けてここまで勉強ができるようになった」というように、その子をプラスに評価する場合でしょう。
むしろ、こうした使われ方がほとんどです。
「B太は、地頭がいいけれど努力しないからなあ」
「C子は、地頭の良さだけでここまできたけれど、さすがに点がとれなくなったな」
「地頭がいいだけでは〇〇中学には通用しない」
わかりますね。
「地頭がいい」が使われるときには、必ず「努力しない」とワンセットなのです。
中学受験は、「地頭のよさ」だけでは通用しません。そして、子どもというものは、地頭が良いうえにさらに人に倍する努力ができる子はほんの一握りです。「地頭がいい」子ほど努力をしないものなのです。それはそうでしょう、努力なんかしなくても通用してきましたので。しかし、中学受験には通用しません。
努力を否定する概念
「地頭がいい」、こうした場面でも使われます。
「うちの子では、いくら努力しても地頭がいい子にはかなわない」
「A君はさすがね。あの子は地頭がいいから」
自己を卑下し、他者を妬む場面でもよく登場します。
たしかに、世の中にはとんでもない「地頭」レベルの人が存在します。
開成→東大→ショパンコンクール入賞
聖光→東大→医師国家試験・司法試験・公認会計士試験合格
もちろん、地頭だけではピアノは弾けるようにもなりませんし、司法試験にも受かりません。とんでもない努力が背景にあることは当然です。
しかし、こんな「超弩級」の地頭の話をしているのではないでしょう。
努力を否定し、結局は優秀な遺伝子がものをいう、そういう「諦め」のときに使われるのだと思います。
だから、私は「地頭がいい」という表現を否定します。
それは、「教育」「努力」を否定する概念だからです。
どんなに「地頭がいい」子でも、努力できない子は伸びません。そもそも中学入試に合格できません。仮にそこをクリアしたとしても、中高で努力しなければ、「深海魚」になるだけです。
今まで、そうした子をたくさん見てきました。小学校低学年のうちはあんなに輝いていた子が、いつのまにか消えていく。
努力を継続できる子が一番評価できます。
その力こそが、中学校が求めるものなのです。