
この話題については、書こうかどうしようか迷ったのですが、書いてしまいます。
タイトルは「制服から入る学校選び」としましたが、「〇〇学園の制服が可愛いから」という学校選びの話題ではありません。もちろんそれだって立派な動機でしょうけれど。
そうではなくて、街で、電車内で、見かける制服姿の中高生を見ながらの学校選択についての提案です。
お断りしておきますが、私は昭和の価値観を引きずる保守的な人間です。先日も生徒から、「萌え袖」という単語を始めて教えてもらいました。
「最近の女子って、どうしてセーターの袖がみんな長いのか不思議だ」
「先生、知らないの? 萌え袖だよ」
「?」
「ああいうのが可愛いんだって」
そういえば、枕草子にもそんなことが書かれていましたね。
いみじう白く肥えたるちごの二つばかりなるが、二藍の薄物など、衣長にてたすき結ひたるがはひ出でたるも、また短きが袖がちなる着てありくもみなうつくし
さすが清少納言です。
巷で見かける中高生たち
さて、電車に乗っていると、中高生の制服姿が気になるのは職業病です。制服に興味があるのではなく、どこの学校の生徒なのかが気になるのです。
例えば、重そうな鞄を前に抱えて、一心不乱に英単語を覚えている高校生など見かけると、「お、まじめそうじゃないか。どこの高校かな?」と気になるのです。ドア付近に固まって乗降客の邪魔になっている中学生たちを見ると、「残念な子たちだな。どこの学校だ?」と気になります。
先日は、電車内で寄り添っている高校生男女を見かけました。それだけなら微笑ましいものですが、男子の手がずっと女子の腰に回されているのはみっともないというのが私の価値観です。
ちなみに、「みっともない」の語源は「見とうもない」、つまり「見たくもない」です。
人気の大学付属校(共学)の生徒達を、学校近くのターミナル駅で見かけました。数名の女子生徒が道幅一杯に広がって歩いています。まあこれくらいなら普通です。残念だったのが、皆スマホを鏡代わりにして「メイク」しながら歩いていることでした。それもかなり本格的な「メイク」です。見た所中学2年生くらいのようです。プライベートならいざ知らず、制服姿の中高生に化粧は似合わないというのが私の意見です。少なくとも、人前で化粧するなど「みっともない」ことこの上ない。そもそも、日曜日に遊びに行くのではなく、学校帰りに歩きながらメイクする意味がわかりません。この後制服のまま「化粧が必要な」遊びにでもいくのでしょうか。大学附属校にありがちな光景ではありますが、せっかく大学受験の必要が無いという特権を持ちながら、青春を謳歌する方向性がずれているように思うのです。この学校、難易度が高く、私が指導した生徒も何人も進学しています。中には、御三家残念で進学した真面目な生徒もいました。あの子は、学校に馴染めているのかな?
私鉄で移動中に見かけた女子高校生たち。スカートが極端に短いことくらいには驚きません。ブラウスの胸元が品のないレベルまで開けられていることにも、メイクが夜の歌舞伎町レベルであることにも、もはや驚いてはいられません。5人分くらいの座席を3人で占拠し、だらしなく足を投げ出して座り、ポテチをばりばりと頬張りながら、聞くに堪えない言葉遣いで話に興じています。私の知らない制服・校章でした。後で調べてみて、沿線の私立女子校であることが判明しました。幸いにして私が指導した生徒たちで進学した生徒は皆無です。もし今後そういう生徒がいたら、おそらく私は止めるでしょう。
古典的な詰襟制服姿の男子高校生の集団がいます。特徴ある制服から、すぐにどの学校の生徒かわかります。中堅校の生徒たちでした。しかし、電車内の様子がいいのです。明らかに友達同士として乗って来たはずなのに、固まらずにばらけて立っています。他の乗客の邪魔にならないような振舞が身についていると見ました。スマホを取り出しているところは今どきですが、横目で見ると、一人は英単語アプリ、一人はkindleで読書をしていました。あとの3人はよくわかりませんが、静かにしています。こういう様子を見ると、学校に対する評価があがりますね。
女子校から共学化したことで人気が急上昇したとある学校の女子生徒たち。中3くらいでしょうか。学校最寄りの駅から集団で乗ってくると重そうなリュックを床に下ろしました。荷物が重いのは、良い学校の特徴だと思っています。テキストやノートをたくさん持ち歩かされているということですね。ただし、その場所がよくなかった。7・8人がドア付近に固まっているため、あきらかに他の乗客の乗降の邪魔になっています。そうした乗客たちに睨まれてもお構いなしなのは、スマホに夢中だからです。高速でスクロールしたり文字入力していたりするところを見ると、勉強でないことは明らかです。さらにこの子たちは皆メイクしています。おそらく校則が自由な学校なのでしょう。
校則については、私は不要論者です。そんなものは家庭の躾の問題であって、学校の責任ではないと思っているからです。しかし、家庭の躾に期待できない子どもたちが集まる学校の場合は、厳しい校則も仕方がないのでしょうね。どうやらこの学校は、家庭の躾に期待できない生徒達を集めているのに、「自由」な校風としてしまったようでした。実はこの学校の生徒達、同偏差値帯の他の学校に比して、「残念」な子が男女ともに多い印象があるのです。受験偏差値と実際の生徒のレベルが乖離している学校の一つだと思っています。
地下鉄で見かけた一人の女子生徒。たぶん中3か高1くらいだと思いますが、私服なのでよくわかりません。髪の毛はかなり明るい色に染めています。私服でこの髪色ということは、もしかしてあの学校かな? 座って文庫本を手にしていました。電車内で文庫本を読む中高生、絶滅危惧種ですね。それだけで評価が上がるのは職業病です。すると、近くにお年寄りが立ったのです。お年寄りの目の前に座っていたOLらしき女性はスマホに夢中で気づきもしませんでしたが(あるいは気づいても無視していた?)、この女子生徒はすっと立ち上がってそのままドアのほうに行きました。まるで次の駅で降りるかのような自然な所作に、お年寄りも普通に座ります。見ていると、この生徒はそのまま降りずにドア付近に立ったまま、本を読んでいました。お年寄りに負担を感じさせないようにさりげなく席を譲る所作、さすがですね。この学校に対する評価が上がります。
だらしなさを絵に描いたような男子高校生たち。薄汚れた白シャツの裾を出し、ズボンは「腰ばき」しています。チェックの制服のズボンは、あの学校でしょう。若者のお洒落の基準などもはや私には理解できませんが、少なくとも「制服」の着崩し方としては最悪です。そんなに「決められた」制服が嫌なら、制服の無い学校を選ぶべきでしたね。
ちなみに、「腰ばき」は、アメリカの刑務所由来のファッションなんだそうです。刑務所ではベルトの使用が禁止されていたため(理由を考えると恐ろしい)、常にズボンがずり落ちていたのだそうです。
学校選び
お子さんが受験を考えている学校がいくつもあると思います。それらの学校の「制服」を頭に入れましょう。本当は、通学時間を狙って学校近くの駅や電車で観察してほしいところなのですが、さすがにそんな暇は無いですね。せめて、普段の通勤や外出の際に、「志望校」の制服姿の中高生たちの様子を気にかけてほしいのです。
そこには、中高生たちの「素」の姿が見られると思います。学校選びに大切な「情報」が得られることでしょう。
もちろん、どの学校にだって「残念」な生徒はいます。真面目な生徒も大勢います。たった数名~数十名程度の「目撃」経験でその学校の評価を変えるのは間違っているという意見もわかります。
どこの線を超えると「残念」と感じるのかの基準も、ご家庭によって様々なのもわかります。
しかし、たとえ数名でもそうした「残念」な生徒を確認してしまった以上、その情報は無視できないというのが私の考えです。
非常に失礼な例えをします。
木箱に入ったりんごがあります。箱の奥のほうのりんごまで全てを確認することはできません。
一つの木箱には、見える範囲にはつやつやとした美味しそうなリンゴしか見当たりません。もう一つの木箱には何個か傷みかかっているリンゴが見えています。
「見える範囲のりんごは美味しそうだが、きっと箱の奥には傷んだリンゴもたくさんあるに違いない」と考えるのか、それとも
「見える範囲にいくつか傷んだリンゴがあるが、きっと箱の奥には美味しいリンゴばかりなのに違いない」と考えるのか。
答は明らかです。
制服の意味
制服の無い学校は多くはありません。とくに中高一貫校では数えるほどです。ということは、中学受験をする子たちのほとんどが、何等かの制服を着ることになるのです。
その制服を着て、その校章を身に着けて外に出るということは、その学校の生徒として周囲から認識されることを意味します。学校の評価を高めることも、貶めることもあるという意識が常に必要です。
それこそが、制服の意味なのだろうと思います。
中高生の本分は勉強です。しかしそこで学ぶものは、教科学習だけではないと思います。周囲からどう見られているのかに意識を向けることも学ぶのだと思います。やがて、「周囲から見られているからこう振舞う」、という段階を超えて、「自分が見ているからこう振舞う」、という段階へと進むのです。
「天が知る、地が知る、我が知る、あなたが知る」ということですね。
この語句の原典は、後漢書に出てくる、「楊震」という人物の逸話です。
ある夜、賄賂を持ってきた人を諫める言葉なのですね。
至夜懐金十斤、以遺震。
震曰、故人知君、君不知故人、何也。
密曰、暮夜無知者。
震曰、天知、地知、我知、子知、何謂無知。
密愧而出。
もともとは「地知」ではなく、「神知」だったそうですが、唐のころからいつのまにか変化しました。天と地をセットにしたほうがわかりやすいからでしょうか。
こうしたことは、学校だけの責に帰するものではありませんね。ご家庭の責任だと思います。
そう考えると、上にあげたポテチ女子校生たち、家庭できちんと躾けを受けられなかった可哀そうな子たちだったのでしょう。