
前回の記事で、気になった「公正・公平・平等」について考えてみたいと思います。
辞書的定義
まずは手元にあった辞書をひいています。
中学生用の「例解新国語辞典(三省堂)」にはこうありました。
「公正」・・・かたよりがなくて平等であること
「公平」・・・一方にかたよらないで、えこひいきのないこと
「平等」・・・差別したり差をつけたりしないで、みんな同じであること
まあ、こんなものでしょう。ただしこれを読んだだけでは、公正・公平・平等の何が違うのかわかりません。
そこで、愛用の「新明解国語辞典(三省堂)」を見てみましょう。
「公正」・・・特定の人だけの利益を守るのではなく、だれに対しても公平に扱う様子。
「公平」・・・(問題になっているものを)自分の好みや情実などで特別扱いをする事が無く、すべて同じように扱うこと。
「平等」・・・その社会を構成する、すべての人を差別無く待遇すること。
ちなみに広辞苑はこうです。
「公正」・・・①公平で邪曲のないこと。②明白で正しいこと
「公平」・・・かたよらずに、えこひいきがないこと
「平等」・・・かたよりや差別がなく、すべてのものが一様で等しいこと
何度読み返してみても、違いがよくわかりません。
こういうときは英語で考えてみてもよいかもしれません。
◆平等=Equality(イクオリティ)
◆公平=Equity(エクイティ)
◆公正=Justice(ジャスティス)
一般にはこうなっています。
まずequalityの語源ですが、ラテン語の「aequalitas」です。「aequalis」が等しいという意味ですし、まさに「差がない」「均一」「同等」という意味なのですね。
次に、Equityですが、実は語源は同じです。
最後にJusticeについては、Justiceはラテン語のjustitia(公正、正義)が語源です。これは法的かつ道徳的な公平を意味するようですね。
そういえば、Justといえば「ちょうど」という意味で使いますが、これも「正しい」=「法」を意味するのです。
平等と公平はほぼ同じ意味であり、それは客観的な意味である。さらに「公正」となると、そこに正義の要素が付け加わる、そのように私は理解しました。
そういえば、このことの説明としてよく使われる有名なイラストがありますね。それを少しアレンジして考えてみます。
身長の違う兄弟が、塀ごしに野球を見ています。階段のような踏み台があったので、子供たち二人はそれに乗りました。兄は見ることができましたが、弟は見ることができません。お父さんは子供たちにいいました。
「二人とも同じところに立っているんだから、平等だろ?」

たしかに平等です。父親は兄弟を平等に扱っています。ここで例えば弟だけを父親が肩車したのでは、「平等」に扱ったことにはなりません。
ただ、これでは弟が哀れです。そもそも身長の違いという歴然とした事実がありますので、平等に扱うことで公平にはならないのです。
そこで踏み台を用意することにしました。
長男は不要なのですが、踏み台に乗ってみたいと騒ぎます。そこでお父さんは二人に同じ高さの踏み台を用意しました。

そこで、兄弟は二人とも観戦できました。
この状態が、公平=Equity(エクイティ)ということになります。
兄にも、本来は不要である同じ踏み台を用意しましたので、平等でもありますね。しかし今度は弟が文句をいいます。「お兄ちゃんと同じ高さがいい!」
そこでお父さんはもう一つ踏み台を用意しました。

さあ、これは公平でしょうか? それとも平等でしょうか?
二人とも観戦できましたので、公平に思えますが、弟だけ踏み台を2段用意してもらいました。これって公平なのか? 明らかに平等ではないですね。
(子供は高いところに上りたがる前提です)
兄弟が二人とも野球を観戦する、という目的を考えれば弟の2段の踏み台は明らかに無駄です。したがって平等でもないですし、公平とも言い難い。しかし、頭の高さは揃いました。これは平等ではないのか?
ここでは、兄弟の身長の差という客観的事実をどうとらえるかということなのでしょう。
さて、これに公正の考え方を入れるとどうなるでしょう?

これですね。最初から高い塀がなければよかったのです。そうすれば背の異なる兄弟は二人とも普通に特別な待遇をせずとも観戦できたのです。
選挙や住民投票等で、平等・公平・公正の考えを実現するのは難しいことです。
まず、すぐに思い浮かぶのは「一票の格差」ですね。どこに住むかは本人の自由です。別に強制されたわけではありません。一人一票の原則も守られています。そのうえで生じた「一票の格差」は平等であるという屁理屈も成立してしまうのです。もちろん一票の価値に差が生じている以上、これは「平等」ではないですし、あきらかに「公平」でもなければ「公正」でもありません。
平等かつ公平に実施された選挙にしても、結果が必ずしも「公正」なものとは言えない場合があることはご存じのとおりです。
日常生活にもこの問題は見かけます。
地下鉄の長い上りエスカレーターがあります。そこに車いすの人がやってきました。駅員は乗ろうとする他の人たち全員を制止します。最後の客が上までつきました。それを確認してから、エスカレーターに特別な操作をします。すると、3段のステップがフラットになって、ちょうど車いすが乗れるくらいの台に変形しました。「車いす対応エスカレーター」というものですね。車いすの人がそれに乗り、最上部にたどり着くまでの間、他の人の利用を制止します。無事上まで着いた後、変形モードを解除して、通常運転が再開されました。
これを暖かい目で見守る心のゆとりが欲しいと思いますし、そうした社会でありたいと願いますが、現実はなかなかそうはいかないでしょう。電車に乗り遅れる人も大勢いそうです。
これは、公正ではありますが、公平かと言われれば、微妙です。健常者も車いすの人もエスカレーターを利用できたという観点からは平等かもしれませんが、待たされて遅刻してしまった人の意見は異なる気がします。
もちろん、エスカレーターと階段とエレベーターが近くに固まって設置されているのが理想です。それならば、平等ですし公平かつ公正であるといえるでしょう。
急ぐ人は階段を駆け上がり、車いすやベビーカー等はエレベーターを使い、大半の人はエスカレーターを利用する。交通バリアフリー法により少しずつ実現しつつありますが、まだまだ不十分なのは知っての通りです。
ただ、公正の考えをもっと突き詰めると、そもそも横に移動したいのに、上下に移動させられる地下鉄という存在が問題であることに気づきます。
上の野球観戦の例でわかるように、「特別な対応が必要」な状況そのものがいけないのです。
フランスのストラスブールのように、トラム網が発達していれば、そもそも問題は発生しませんでした。
大学入試会場に向かう途中、目の前で倒れたお年寄りの救護を行った受験生がいたとします。そのため試験時間に大幅に遅刻してしまい、試験を受けられませんでした。
「遅刻者には一切の配慮をしない」という大学の判断は、受験生全員を平等に扱う、実に公平な判断です。しかしこれは公正な判断といえるのでしょうか?
試験の運営側からみれば、公正な判断なのでしょう。しかし、社会的に見て、とても公正とは言えないと思います。
1973年に、尊属殺重罰規定違憲判決とよばれる法令違憲判決が最高裁により出されました。有名な事件ですので詳細は省きますが、子による親への殺人に対しての刑罰が重すぎることが憲法違反とされたのです。
この判決に対しても、一部の法律専門家や政治家から、反対意見が表明されたというから驚きです。最高裁の裁判官にも反対した者がいたのです。
そもそも刑法の規定が、平等でも公平でもなかったのですが、判決を受けて法改正をしようとしたところ、一部の政治家の反論により頓挫しました。
何をもって「公正」と考えるのかが、人によって異なったのですね。
参考までに、大貫弁護士による口頭弁論を紹介します。名演説です。
刑法第200条の合憲論の基本的理由となっている「人倫の大本、人類普遍の道徳原理」に違反したのは一体誰でありましょうか。
本件においては被告人はその犠牲者であり、被害者こそこの道徳原理をふみにじっていることは一点の疑いもないのであります。
親子相姦という如き行為は、古代の未開野蛮時代なら格別、人類が神の存在を信じ長い歴史的試練を経て確立した近代文明社会における道徳原理からみれば、何人とも言えども許すことのできない背徳行為であります。
被害者の如き父親をも刑法第200条は尊属として保護しているのでありましょうか。
かかる畜生にも等しい父親であっても、その子は服従を要求されるのが人類普遍の道徳原理なのでありましょうか。
本件被告人の犯行に対し、刑法第200条が適用され、且つ右規定が憲法第14条に違反しないものであるとすれば、憲法とはなんと無力なものでありましょうか。
弁護人は法曹としてその無力さを嘆かざるをえないのであります。
また、もしそうであるとすれば、もはや、刑法第200条の合憲論の根拠は音を立てて崩れ去ると考えられるがどうでありましょうか。
問題となった刑法200条が削除されたのは1995年というから驚きです。