中学受験のプロ peterの日記

中学受験について、プロの視点であれこれ語ります。

【文章読解】「蜘蛛の糸」の原典を読んでみる

あるとき、教室の壁に一匹の蜘蛛が現れました。

「先生、蜘蛛!」

「そうだね」

「捕まえないの?」

「蜘蛛はゴキブリハンターと呼ばれてるからね」

「でも気になる!」

「しかたないなあ」

蜘蛛をそっとつかまえて窓の外に逃がします。

「先生、これで血の池地獄にいても助けてもらえるね」

「私は地獄に落ちる前提か?」

このやり取りが成立するためには、生徒が「蜘蛛の糸」を読んでいることが前提です。小6ともなると、さすがに「蜘蛛の糸」くらいは読んでいるだろうと思ったのですが、私とその生徒のやり取りが理解できないでぽかんとしている子もいるのです。

 

久々に「蜘蛛の糸」をきちんと読んでみたくなりました。

 

成り立ち

「蜘蛛の糸」が発表されたのは、1918年、大正7年です。「赤い鳥」創刊号に掲載されました。「赤い鳥」といえば、鈴木三重吉による児童文学誌ですね。そうなのです、この作品は児童文学として書かれたものなのです。「児童」に読ませる内容としてはかなりヘヴィだと思いますが、この当時の「児童」への接し方は今とは違ったのだと思います。ひたすら守らねばならない存在=世の中の黒い部分を見せないようにしなくてはならない存在ではなく、教え導くべき存在だったのでしょう。

 

私は、今まで漠然と、この物語の元ネタは、羅生門や鼻などと同様に、『今昔物語集』か『宇治拾遺物語』あたりにあると思っていました。

しかし、改めて調べ直すと、まるで違いました。思い込みって怖いですね。気を付けます。芥川龍之介に詳しい方なら常識なのでしょうけれど、改めてここに整理してみます。

 

元ネタとなった作品には、いくつかの候補があるようですが、今はこれだとされています。

 

◆ポール・ケラー「カルマ」

 ポール・ケラーは、ドイツ系アメリカ人の作家&宗教学者です。1894年に『Karma: A Story of Buddhist Ethics』という仏教説話集を書きました。「Karma」って、仏教用語の「業(カルマ)」ですね。アメリカ人が仏教説話集を英語で書いているというのも興味深いです。そういえば私の知人のアメリカ人にも、「Buddhism」に興味を抱く人は多いですね。キリスト教とユダヤ教は縁戚関係の宗教ですし、イスラム教も彼らを「啓典の民」として認めています。同じ「神」を信仰しているという共通点もあります。しかし、そんな彼らから見ると「仏教」はそうとう不思議で興味深く映るようですね。「悟り」「輪廻転生」などが新鮮に聞こえるようです。アメリカ人と話ししていると、「Buddhism」についてあれこれ質問を受けることもよくあるのです。

もし今後欧米に留学予定なら、ぜひ仏教についての基本知識は身に着けておくことをお勧めします。

さて、このポール・ケラーが編集長を務めていた出版社で仏教関係の書籍を出版していたのが鈴木 大拙です。鈴木 大拙といえば、禅や仏教関連の書籍を英語で著し、禅文化・仏教文化を海外に広く紹介した仏教学者として知られていますね。

「Karma: A Story of Buddhist Ethics」を、『因果の小車』というタイトルで日本語訳して出版したのは鈴木 大拙でした。

 

さて、やはり原典にあたりたいですね。

まずは「因果の小車」を国立国会図書館のアーカイブから見つけました。

ところが・・・・。画像で全ページがUPされているのは素晴らしいのですが、いかんせん写真が粗く、古めかしいフォントで、しかもあまりにも格調高い漢文調のため、読みづらいのです。漢字も判読不能なものが多い。

まいったな。

そこで、いっそのことさらに原典にあたるべく、「Karma: A Story of Buddhist Ethics」を探したところ、カリフォルニア大学の蔵書の中で、本の全文が画像でUPされているものを見つけました。アルファベットですし、こちらのほうが読みやすい。そこでそのまま手入力してみます。

なるほど。

基本ストーリーは一緒ですが、少し紹介します。

冒頭は、こうなっています。

While the charitable sasmana washed the wounds, the robber chief said  "I have done much evil and no good.  How can I extricate myself from the net of sorrow which I have woven out of the evil desires of my own heart?  My Karma will lead me to Hell and I shall never be able to walk in the path of salvation."

慈悲深い僧侶が盗賊の傷を洗っていたところ、盗賊がこう嘆いたのですね。

「俺は散々悪いことばかりしてきたから、地獄行き確定だね!」

すると僧侶はこう言いました。

「なるほどね。確かにお前の業は深いし、もうダメでしょ。でも、改心すれば、もしかして・・・・」(ひどい意訳ですいません)

 

いったい地獄行確定なのか、それとも救われる道があるのか、どっちなんだ! と突っ込みたくなるところです。

さらに僧侶はこう続けました。

「お前にひとつ話をしてやろう。カンダタという大盗賊がいた。彼は悔い改めることなく死に、地獄で餓鬼として生まれ変わり、そこで悪行の報いとして最も恐ろしい苦痛と苦しみを受けた。彼は地獄に幾多劫も留まり、その惨めな境遇から抜け出せずにいた。その時、仏陀が地上に現れ、悟りの福徳の境地に至った。 その記念すべき瞬間に、一筋の光が地獄に降り注ぎ、全ての餓鬼たちに命と希望を吹き込んだ。盗賊カンダタは大声で叫んだ。『ああ、尊き仏よ、私を憐れんでください!私は深く苦しんでおります。悪を行ってきたとはいえ、今や正義の尊き道を進みたいと切に願っております。しかし悲しみの網から自らを解き放つことができません。どうかお助けください、仏よ。私を憐れんでください!』

 

カンダタが登場しましたね。

 

ここで、こんなことが書かれています。

 

悪行は破滅をもたらすという業の法則がある。なぜなら絶対的な悪は存在し得ないほどに邪悪だからだ。しかし善行は生命へと導き、善行の発展に終わりはない。最も小さな善行でさえ新たな善の種を含む果実を結び、それらは成長を続け、永遠の輪廻における繰り返しの流転の中で苦しむ貧しい衆生を養い、彼らが涅槃において全ての悪からの最終的な解脱に達するまで続くのである。

 

よくわかりませんが、小さな善行でも、大きな結果をもたらし人々を救うかもね、ということでしょうか。

 

 仏陀は、地獄で苦しむ悪魔の祈りを聞いてこう言われた。「カンダタよ、お前はかつて善行を行ったことがあるか? 今その善行が戻ってきて、お前を再び立ち上がらせる助けとなるだろう。 しかし、お前が犯した悪業の結果として味わっている激しい苦しみによって、自我への執着が完全に払拭され、虚栄心、欲望、憎悪から魂が清められない限り、お前は救われることはない。」


「悪魔」? demonと書いてあるので悪魔としましたが、もしかしてこれは「餓鬼」のほうが適訳かもしれません。  

 

あ、ここは注目ポイントかもしれません。

  "When Buddha,  the Lord,  heard the prayer of the demon suffering in Hell, he said:  "Kandata, did you ever pergorm an act of kindness?  It will now return to you and help you to rise again.  But you cannot be rescued unless the intense sufferings which you endure as consequencesof your evil deeds habe dispelled all conceit of serlhood and have purified your soul of vanity,  lust,  and enby."

 

仏陀はちゃんと、救われる条件をカンダタに提示しているのですね。自我への執着を捨てて、虚栄心や欲望を清めなさいと。それが守られないと救われないよ、と。

 

ここは、芥川龍之介の「蜘蛛の糸」と大きく異なるところですね。

蜘蛛の糸では、カンダタが何も願っていないのに蜘蛛の糸が目の前にぶら下がってきて、それを必死によじのぼることになっています。しかし、自分だけ助かろうと、

「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋て、のぼって来た。下りろ。下りろ。」

こう喚いてしまったのですね。その瞬間蜘蛛の糸がぷつりと切れました。

 

私は、どうもこの部分が昔から納得がいかなかったのです。

だって、人間としては素直な反応ですよね。おそらく百人が百人、同じ状況になったら同じように叫んだはずです。もちろん私も叫びます。

それなのに、お釈迦様の反応はこうでした。

自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

これって、どうにも後出しジャンケンのような、後味の悪さを残します。「そういうルールなら、最初からそう言ってくれよ!」 とカンダタならずとも言いたくなるでしょう。

 

しかし、原典を見ると、ちゃんと最初にルール説明があるではないですか。

 

カンダタは黙っていた。彼はかつて残酷な男だったからだ。しかし彼はかつて森を歩いていた時、地面を這う蜘蛛を見たことを思い出した。その時彼は心の中でこう考えたのだ。「この蜘蛛を踏んではならない。無害な生き物で、誰をも狩らないのだから」
   仏陀はカンダタの苦しみを見かねて、蜘蛛の糸を伝って蜘蛛を遣わした。すると蜘蛛は言った

 

おや、蜘蛛がしゃべっちゃいますね。

 

「Take hold of the web and climb up.」(この網をつかんで登りなさい)

 

この後もちろんカンダタは必死に登ります。

するとその後を、亡者どもが大勢登ってくる。そこでついに叫んでしまったのですね。

  "Let go the cobweb.  It is mine!"

 

"The illusion fo self was still upon Kandata.  He did not know the miraculouspower of a sincere longing to rise upwards and entere the nob;e path of righteousness.  It is thin lik,e a cobweb,  but it will carry millions of people,  and the more there are that climb it,  the easier will be the efforts of ebery one of them. But as soon as the idea arises in a man's heart:  

 

 

要するに、カンダタはわかっていなかった、ということがいいたいのでしょう。人々の誠実な願いの奇跡的な力は、蜘蛛の糸に細くても数百万もの人を支える強靭な力があるのだと。

 

ここでカンダタの物語は終わり、例の盗賊の話に戻ります。

 "Let me take hold of the spider-web,"  said the dying robber chif, when the samana had finished his story,  "and I will pull myself up out of the depths of Hell."

 

「俺にも蜘蛛の糸を掴ませてくれよ!」 死にゆく盗賊が請うところで終わりです。

 

それに比して、「蜘蛛の糸」のエンディングはこうです。

 

 しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。

 

なんとも冷酷というか、当然というか、対照的なエンディングですね。

極楽の蓮にとっては、地獄で苦しむカンダタが救われようが地獄に落ちようがどうでもよいのです。

 

あらためて読み比べてみると、基本ストーリーは同じなのに、まったく違う物語となっているところに、芥川龍之介の凄みを感じます。

 

なんとなくですが、芥川龍之介は、仏教にさほど救いを求めていなかったように感じました。少し突き放した印象を感じませんか?

阿弥陀仏の本願とも矛盾する気もしますし。

 

そうした仏教的な「説話」から離れた作品として読むべきなのでしょうね。

 

ラストシーンと対比するように置かれている冒頭はこうでした。

ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂いが、絶間なくあたりへ溢あふれて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

 

この何とものどかな現実離れした極楽のシーンにはさまれているからこそ、地獄の場面が映えるのです。

 

それにしても、「赤い鳥」にかかわったのは錚々たる作家たちです。

芥川龍之介以外にも、北原白秋や泉鏡花、徳田秋声や高浜虚子の名があります。菊池寛、谷崎潤一郎らが寄稿しているのです。

有島武郎の「一房の葡萄」も赤い鳥掲載だったのですね。

谷崎潤一郎にも驚きます。どう考えても児童向きの作家ではないはずですが。

たぶん「小さな王国」あたりが掲載されたのでしょうか?

いろいろ調べてみると、「敵討」という作品タイトルが2号の目次にありました。どんな話なのかは不明です。

 

 

こういう「児童文学」なら大いに子どもたちに読んで欲しいと思います。最近の巷にあふれる幼稚な子供だましのような「児童」文学とは一線を画すと思います。