中学受験のプロ peterの日記

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【国語力向上】ロジカルライティング入門編 短文作成で国語力向上その4

この記事は、ロジカルライティング講座の入門編の位置づけです。論理的思考力を養成するより前に、まずは最低限の国語力を身に着けることが目的です。

※登場するのは、難関女子校を目指す、国語が苦手な6年生女子3人組、アヤネ・ミユキ・カホ(仮名)です。

温故知新

私:みんなは、「温故知新」という熟語は知っているかな?

ミユキ:先生、私たちのこと馬鹿にしてるでしょ。もちろん知ってるよ。

私:どういう意味だ?

ミユキ:だから、えっと。あれ? 何だっけ? 何か聞いたことある気がするんだけど。

私:つまり知らないんだな。

ミユキ:うん。

カホ:私も聞いたことあるけど、よくわからないよ。

アヤネ:古い言い伝えを馬鹿にしてはならない、といった意味だったような気がします。

私:惜しい! 「温故知新」というのは、古い教えから新しい知識を学ぶ、という意味なんだ。

ミユキ:なんだか矛盾していない? 古い教えに含まれている知識はすでに古い知識だから、新しくないと思うけど。

私:これは中国の言葉だね。今から2500年ほど前に、孔子という人が書いた「論語」という書物に出てくる。

アヤネ:孔子は儒教をはじめたんですよね。

私:そうだ、よく知ってたな。その論語にはこうあるんだ。「子曰、温故而知新、可以為師矣」 これはこう読む。「子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて新しきを知る、以って師と為るべし」 ここで「子」というのは孔子のことだ。意味はこうだね。「孔子先生はおっしゃいました。先人の学問を研究してそこから新しい知識を得ることができれば、人を教える師となることができるだろう」

カホ:別にあたしたち先生を目指しているわけじゃないし。

私:今では、「温故知新」というのは、歴史や過去の経験から学びを得ることが大切だ、という意味で普通に使われているよ。さあ、それじゃあ意味がわかったところで短文作成だ。

ミユキ:「私はいつもテストで同じところを間違えます。温故知新が足りません」

私:ううむ。間違ってはいないが、△だな。これでは「温故知新」がただの「反省」という意味でしか使われていないからな。

カホ:「温故知新で過去問を解くことが大切だ」

私:ううむ。これも間違ってはいない。△〇だな。

カホ:どこを直せばいいの?

私:「温故知新の精神で過去問をしっかり学ぶことで得点力向上につなげたい」だね。この言葉は、古いことを学ぶことで未来に活かすということをきちんと表現しないと使いづらいのだ。

アヤネ:「温故知新の心を忘れて歴史を軽視すると、よりよい現在も未来も訪れない。」

私:素晴らしい!

カホ:またいい子ぶりっこした?

アヤネ:わかる?

私:いいんだよ、いい子ぶりっこでも。

アヤネ:以前、歴史の最初の授業でPeter先生がドイツの政治家の言葉を教えてくださったことを何となく覚えてたんです。

ミユキ:ああ、何かあったね。何だっけ? ちゃんと勉強しないと目が見えなくなるだっけ?

私:ドイツの大統領だったヴァイツゼッカーが、敗戦40周年の演説を議会で行ったんだね。まさに歴史に残る名演説だ。その中の一節にこうあった。「・・・過去を克服することはできない。過去を変えてなかったことにすることもまた不可能だ。しかし、過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となる。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥ってしまう。・・・・」

カホ:そうそう、それ。先生ってそういう演説、好きだよね。

私:人の心を動かす言葉が好きなんだ。この言葉も深いよね。ドイツはナチズムの反省を忘れないという決意があるんだな。歴史を学ぶ意義はまさにこれだな。

ミユキ:温故知新と何か似てるね。

 

他力本願

カホ:このあいだお母さんに、他力本願の勉強じゃだめだって怒られたんだ。

ミユキ:あ、あたしも同じこと言われたことあるよ。他力本願じゃなくて自力でがんばりなさいって。

私:ああ。それはお母さんが間違ってるな。

アヤネ:私もよくわからないので、教えてください。

私:もとは仏教の言葉なんだ。阿弥陀仏という仏様がいるんだ。

カホ:あみだくじの人?

私:人ではない。あみだくじは室町時代から行われていたそうだが、もともとは真ん中から周囲に向かって放射線状に書いたんだ。それが阿弥陀如来の後光、仏像の後ろにあるやつだな、それに似ているところからあみだくじと呼ばれるようになった。

ミユキ:カホ! 先生にそういうこと聞くと説明が止まらなくなるから。先生、南無阿弥陀仏の仏様ですよね。

私:そうだ。人々を助けて極楽浄土に連れていってくれる仏様だな。阿弥陀仏の、生きるもの全てを助けたいという強い願い、これが他力本願だ。つまり、自分で何とかするのではなく、ここは全身全霊をもって阿弥陀仏の本願にすがるべきだ、という考え方なんだね。

アヤネ:それでは、他力本願は悪いことではないんですか?

私:そうだ。浄土宗や浄土真宗ではとくに推奨される考えだな。それがいつのまにか、他人の力をあてにする、他人まかせ、自分で努力しようとしない、という悪い意味で使われるようになって、今ではこっちが定着してしまった。企業や政治家が悪い意味でこの言葉を使うと、浄土宗や浄土真宗から抗議された、なんてこともあったようだね。ただ、こうした言葉というのは、少しずつ変化していくものだからな。そもそも本来の意味でこの言葉を使う人も少なくなった。辞書にも、両方の意味が載せられているよ。

ミユキ:先生、短文作成は?

私:この熟語はやめておこう。仏教用語として短文作成するしかないし、誤用で短文作成はさせたくないしな。みんなもこの熟語を使うときは気を付けてくれ。

 

誤用の定着

 

言葉は生き物です。本来の意味とは異なる使われ方が定着したり、漢字が変化したりすることもあります。こうした熟語はとくに注意が必要ですね。以前の記事で紹介したことのある「煮詰まる」など典型的な例ですね。

本来は、料理が煮詰まって味が良くなることから、十分に議論し尽くされて結論が出るという、プラスイメージの表現でした。それがいつのまにか、議論が行き詰って結論が出ないという、逆の意味で使われるようになってしまったのですね。この表現は、今まさに変化の過渡期にあります。

「議論が煮詰まり、僕たちの表情は明るくなってきた」

この文を読んで、違和感を感じる人は、「若者世代?」です。