前回の記事で算数を槍玉にあげてしまいましたので、バランスをとる?ために、今回は国語について考えます。
国語の指導は簡単だが難しい
「先生、久しぶり!」
「おお。誰だかわからなかったぞ。もう大学生になったんだね」
「そうだよ。今日は先生に聞きたいことがあって」
「何だ?」
「あたしこんど塾のアルバイト講師に応募しようと思ってるんだ」
「君が先生か。富士山が噴火しなければよいが」
「ひどいなあ。それでね、国語にしようかと思ってるんだけど、どうかな?」
「たしかに君は国語が得意だったからな。でも悪いことはいわないから、やめておいたほうがいい」
「どうして? 先生だって記述の指導してるじゃない。あたし、先生の授業大好きだったよ」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、国語の先生をやるには大きな障壁があるんだ」
「障壁? 何?」
「年齢の壁だ」
「私が若すぎるってこと? たしかにまだ18歳だけど」
「その通り。若すぎる」
「それじゃあ、年寄りしか国語の先生やっちゃだめってこと? たしかに先生は・・・・」
「それ以上言うな! いいか、たしかに生徒たちは国語が解けない。君は解ける。でもそれだけじゃダメなんだ。だって生徒の親だって普通に解けるからな」
「たしかにそうだね。解けるだけじゃダメなんだ。それじゃあどうしたらいいの?」
「生徒の「出来ない・わからない」を理解し、説明する力が重要なんだ」
「難しそう」
「たしかに難しい。もちろん通り一遍の授業をするだけなら簡単だけどな」
「どうやるの?」
「解答と解説をあらかじめ見ておくだけだ。そこから逆算して生徒に説明するのなんか簡単だろ?」
「そうだね。それくらいならあたしにでもできそう」
「実は、塾の先生で国語を希望するアルバイト達はみな学力が低い」
「ひどい! まあ否定できないけど。あたし算数も理科も社会も苦手だったから」
「そうだろ? それでこう考える。国語くらいなら教えられるかなって」
「ばれた?」
「実は、高校受験塾で一番応募が多いのは英語だそうだよ。理由は同じだな」
「わかる気がする」
「そういう安易な気持ちで応募してくるから、学力が低い子が多いのだろう」
「でも、国語、教えてみたいんだよね。どうしたらいい?」
「本当は、親よりも豊富な人生経験と、読書経験が必須なんだが。そのどちらも君には無いからな」
「あ、本はけっこう読んでるよ」
「それはいいな。ちょっとテストしてみるか。『選ばれてあることの、恍惚と不安と二つ我にあり』 これは誰の本に出てくる?」
「ふふん。まかせて。太宰治でしょ?」
「正解! それでどの本に載ってたかはどうだ?」
「それはちょっと。」
「太宰の最初の作品集「晩年」の冒頭の「葉」という短編の最初に書かれてあるんだ。それでは、これはある詩人の言葉を引用したのだが、その詩人はわかるかな?」
「??」
「ヴェルレーヌだね」
「ああ! ヴェルレーヌは読んだことあるよ!『月の光』大好きだった。すごくきれいな詩。ドビュッシー―の月の光に影響与えたんだってね。私、ピアノの発表会で弾いたんだ。キラキラしてきれいな曲だよね」
「合格!」
「何が?」
「君は国語の先生になっていい」
「やった! でもなんで?」
「小学生は太宰治といえば走れメロスしか知らない。まあそれで十分だね。小学生が読むべき作家とはいえないからな。でも、教える教師はそれではダメなんだ。走れメロスしか読んだことのない教師が「走れメロス」を教えるのと、「晩年」に引用されたヴェルレーヌの詩、さらにヴェルレーヌに影響されたドビュッシーの曲まで弾いたことのある教師が「走れメロス」を教えるのでは、授業の深みが全く違う」
「そんなものかな」
「君は、シェイクスピアは好きか?」
「特別に好きってわけじゃないけど、でもだいたい全部読んでるよ」
「イギリスに行ったことはあるかな?」
「私、海外旅行はこの春に家族旅行でハワイに行ったことしかないよ」
「イギリスのロンドンから車で2時間くらいいったところ、ストラトフォード・アポン・エイヴォンという小さな街にシェイクスピアの生家があるんだ。傾きかけたようなぱっとしない家なんだけどね。そのあたりのコッツウォルズと呼ばれる地域は、のどかな田園風景のところどころに小さな街がある、そんなところなんだ。ロンドンも面白いが、こうした郊外もまたイギリスらしくていい」
「へえ。行ってみたいな」
「さて、シェイクスピアを読んだことしかない君がシェイクスピアの作品の授業をするのと、ロンドンやコッツウォルズを訪れたことのある私が授業をするのでは、どちらの授業がおもしろいかな?」
「そんなの決まってるよ。っていうか、ずるいよ、先生」
「そうだろ? 国語っていうのは、引き出しの多さが大切なんだ。だからこそ、若い君には難しい教科ともいえる。でもだいじょうぶ、君には私にはない大きな武器が一つだけある」
「何?」
「若さだ」
「若さは短所だってさっき言われた」
「君は生徒に年齢が近い。だからこそ、生徒の頭の働きが私よりもよくわかる」
「それって、私の頭脳が小学生なみってこと?」
「まあ簡単にいうとそうだ」
「ひどい!」
「いやいや、それは武器なんだよ。生徒がどこでつまずくのか、何を知っていて何を知らないのか、自分を基準に考えることができるからな。これは私にはまねのできない武器なんだよ。だから、自分が理解できるように説明すれば、きっと生徒にもわかりやすい授業になると思うよ」
「褒められた気がしないけど」
「褒めてるんだよ。あ、そうだ、一つだけアドバイスしておこう。黒板に書く字はきれいに書くんだぞ。それだけで尊敬されるからな」
「了解!」
正直言って、国語の指導は誰にでもできます。解答さえ先に見ておけば、後付けの説明など、大人には容易いですから。
ただ、本当に国語の面白さを伝えたり、生徒に理解させ国語力を伸ばすにはそれだけでは足りません。
これって結局のところ、算数と同じですね。
一通り教えるだけなら、誰にでもできる。
でもより深く理解させたり学力を向上させるのは簡単ではない。
結局これが結論でしょう。