よく聞きますね。
「そんなに低学年のうちから勉強させすぎると、途中で息切れしますよ」
あまりにも普通に聞くので、ついそう思いこまされてしまいます。
しかし、これは本当なのでしょうか?
勉強≠スポーツ
この「息切れ」というのは、スポーツの世界の用語だと思います。
限られた体力しかないのに、あまりにも早いペースで最初から飛ばし過ぎると、最後まで体力が持たない、このことを「息切れ」と表現するのでしょう。
ペース配分が大事ということなのですね。
仮に、体力が100あったとして、これをゴールまでどのようにペース配分するのか、そういうことです。この100の体力は、走っているうちに増えません。ひたすら減っていくだけです。つまりこの「息切れ」というのは、ゴールまで体力をどのように温存するのか、そういう意味になります。
勉強はどうでしょう?
学力ではないですね。学力は勉強すればするほど「増加」しますので。限られた学力をゴールまで温存するという発想は成立しません。
むしろ、この「学力」は、増えれば増えるほど、増え方が加速する傾向があります。
知識が増えると、どんどん理解できるようになる。
問題が解けるようになると、次々と今まで解けなかった問題にチャレンジできるようになる。
そういうものです。
つまり、勉強の「息切れ」というのは、勉強に取り組む姿勢・根性のような、きわめて抽象的な精神論を語っていることになります。
「あまり早い段階から勉強しすぎると、途中で勉強する気がなくなるよ」という意味なのですね。
この言説が成立するためには、「勉強する気」というものの定量が決まっていて、勉強すればするほど減っていく、という理屈?が成り立っていなければなりません。
これは、勉強すればするほど、学力がつけばつくほど、学力向上が加速するという「経験」に反します。
そもそも「勉強する気」というのは、量が決まっているものですか?
勉強は嫌なものなのか?
ここで、みなさんに聞いてみたいことがあります。
勉強は嫌いですか?
全力でYESと答える方は、不幸な「勉強生活」を送ってきたのでしょう。
全力でNOと答える方は、良い指導者との幸せな出会いがあったのですね。
実は、私自身を振り返ってみると、NO→YES→NO と揺れていたものでした。
小学生時代は、勉強は楽しいものでした。自分でどんどん前へ進む実感があったからです。小学生の学習は、その全てが「初出」の内容です。知らないことを知る喜び、解けなかった問題が解けるようになる喜び、これはおそらく勉強に向かう姿勢としては、最も「正しい」のだと思います。
しかし、成果が上がらぬ勉強は誰だって嫌なものです。
生徒たちに聞いてみると、「勉強嫌い!」という子は、例外なく成績不振な生徒でした。つまり、勉強が嫌なのではなく、点数がとれないことが嫌なのです。
こうした生徒達に、ちょっとしたテストを与え、誰もが満点がとれるようになるという指導をすることがあります。例えば、漢字テストであったり、語句の意味の問題であったり、あるいは歴史年代であったり。きちんと材料を与え、意味を解説し、覚え方を指導する。その上で、短期間で急速に得点力が向上する「体験」をさせるのです。すると、その分野に関してだけは「得意」=「好き」になります。
ちなみに、中高生のときの勉強は、私にとって暗黒時代でした。周囲が優秀な同級生ばかりであったこともありますが、点がとれない闇をもがき苦しんでいたイメージです。しかしやがて、問題を解くことに知的なチャレンジを感じ、気が付いたら楽しくてしかたがなくなりました。
やはり勉強は、成果があがったり、自分自身の向上が実感できることが大切ですね。
「息切れ」という語句を使う方は、勉強=嫌なもの、という先入観しかないのでしょう。不幸な勉強生活を送られた方なのだと思います。
「息切れ」は存在しない
小学生、とくに低学年までの学習は、「習慣化」が大事です。
好きとか嫌いとかそういうつまらぬことはどうでもよいのです。
やるべき学習を一定の時間をつかって継続してやる。
この習慣を確立することを第一目標として取り組ませましょう。
やがて、学年が上がるについれて、勉強の面白さも見えてくるはずです。