一般に家庭学習についてよく言われます。
「予習・復習が大切です」
それはその通り、と言いたいところなのですが、小学生の中学受験勉強においては違います。
小学生には「予習」は無理なのです。
「予習」と「復習」の違い
予習・・・まだ授業で習っていない内容を、自分であらかじめ学習する
復習・・・すでに授業で習った内容を、自分で繰り返し学習する
今さらですが、こういうことですね。
小学生が「予習」するということは、初出の内容を自分ひとりで学習することになります。
わかりやすく、社会科の歴史を例にとりましょう。
たとえば江戸時代。
子どもは安土桃山時代までは学習が済んでいます。
ただし江戸時代についての知識はゼロです。
いちおう「徳川家康」の名前と、「江戸時代」という時代名だけを知っている、そういう状態だと仮定します。
参考書を開きます。そこには、歴代の将軍の名前や、何をやったのかが網羅されています。
人物名にマーカーで印をつけながら読み進めましょう。
太字で書かれた部分は大切そうなので、暗記します。
江戸時代には、戦乱はほぼありませんので、わかりやすいドラマは展開しません。文化や産業についての説明もよくわかりません。
成熟した町人文化って? よくわかりませんが、覚えます。
・棄捐令・上知令・上げ米の制・帰農令・異国船打払令・鎖国令、とにかく覚えます。
株仲間の奨励・株仲間の解散・公事方御定書・寛政異学の禁、とにかく覚えます。
将軍15人も、どれが大事だかわからないので、全員覚えます。
こうして、頭の中には意味もわからず整理もされていない単語が詰め込まれていくのです。
これが、小学生が行う「予習」です。
予習の弊害
前項で書いたように、小学生が中学受験勉強で学ぶ内容は、すべて「初出」の内容です。小学校では学んでいない内容です。
それを自分で予習しようとすると、とにかく解法や知識を暗記することしかできません。
これは正しい学習ではないのです。
しかもつまらない。
子どもを「勉強嫌い」にさせるのには最適な学習法ですね。
さて、塾の授業風景を想像してみましょう。
今日から江戸時代の授業です。
20名いる生徒のうち、半分が予習をしており、半数の生徒は未修です。
「1603年、徳川家康が」
先生がそう発言したとたん、予習組から不規則発言が飛び出します。
「征夷大将軍になったんだよ」
「それで江戸幕府を開いたんだ」
「江戸城を作ったんだって」
「違うよ、江戸城を作ったのは太田道灌だよ」
「太田道灌って誰?」
「よくわかんないけど、参考書にそう書いてあった」
先生が続きを話そうとします。
「大名を3種類に分けて」
「外様と親藩と譜代だよ」
「親藩が一番偉いんだよね」
「違うよ、譜代だよ」
「違うね、大老だね」
「老中じゃないの?」
先生が黒板に参勤交代と書きました。
「参勤交代って、大名に金を使わせるためにやったんだよ」
先生が身分制度について話そうとします。
「士農工商、知ってるもん!」
「武士が一番えらくて、二番目が農民で、一番低いのが商人なんだ」
もうおわかりのように、うろ覚えの知識をひけらかすのに夢中です。
その間、未修組は「よく知ってるなあ」と感心した目で見ていますので、予習組はさらに調子づくのです。
授業の最後に、先生がこう質問しました。
「江戸幕府がなぜ264年間も長続きしたのかについて今日は考えてみたね。誰かまとめてくれないかな?」
勢いよく手があがるのは未修組です。予習組は、自分たちの知識をひけらかすのに忙しくて、授業をきちんと聞いてはいなかったのです。
子どもは、インプットとアウトプットを並行処理できるほど器用ではありません。インプットしているときはインプットだけ、アウトプットしているときはアウトプットだけ、そういうものなのです。
中途半端な、しかも微妙に間違っていたりもする知識をひけらかすだけでは、授業が無駄になってしまいます。
その日の授業は、中央集権と地方分権をうまく組み合わせた幕藩体制について、将軍の権威を高める施策について学ぶ授業でした。
参考書には書かれていないけれど、本質にせまる授業をしていたのです。
「正しくない予習」は弊害だらけなのですね。
①教わる・・・インプット
②定着させる
学習はシンプルにこの繰り返しです。
そこに、「考える」「疑問を持つ」という要素を加えるのが正しい学びの姿です。
①のインプットは、別に塾でしかできないものでもありません。ご家庭で父親や母親が取り組んでもよいのです。
例とした江戸時代ならば、まずは親が教科書(昔懐かしい山川の日本史)を読み、古の記憶を発掘します。そのうえで、小学生用の受験参考書や、入試問題をよく見て、小学生に必要な知識レベルを書くにします。最後に、どのように話せば江戸時代がわかりやすくなるのかを工夫します。