今回は、2025年入試の中から、慶應普通部の国語をとりあげてみます。
タイトルには「分析」と打ち出しましたが、私の雑感レベルの記事です。
【インビジブルマンシンドローム】
大問1の文章は、なかなか小6男子には読解しづらい文章でしたね。
登場人物は2名、「私」と「鈴木君」です。
最初の1行はこうでした。
「黒板がよく見えるから、席が鈴木君の後ろでよかった。」
さて、この1行からどんな情報を読み取りますか?
・黒板があるから学校の教室
・黒板がよく見えるということは鈴木君は背が低い
普通はこうですね。
もう少し読みすすめると、いくつかの情報の断片が得られます。
・美術の時間にお互いを描くクロッキーという課題が出た
・「私」はうまく描けなかった
「やりたいことが何もないなんて、かなしいことだね」と先生は言った。
「何かないとだめですか?」と私が聞くと、先生は困ったように笑いながら、「すぐにおばあちゃんになっちゃうよ」と言った.
これは進路指導のやり取りですので、「私」は高校生、おそらく高校3年生の女子とみてまちがいないでしょう。
しかし、この進路指導の先生、大丈夫か? と思ってしまいますね。ひどい言い方です。その言葉に「私」が傷ついていることがうかがえます。
「私」と「鈴木君」の描いた互いの絵を並べると、鈴木君の絵は、「迷いのない、きれいな線が心地よかった。」とありますので、絵が上手な子であることがわかります。
それに比べると、「私」の描いた絵は、「私の描いた顔のない鈴木君は、居心地が悪そうに見えた。」とありますので、時間内に描き終えられなかったのだな、とわかります。
その後、「私」と「鈴木君」が学校帰りに、通り道にある「林に囲まれた池」で何度か話をする場面がでてきます。
しかし、その二人のやり取りが、何とも不自然というか、哲学的というか、高校生らしからぬやり取りなのです。
「どうして池を描いているの?」
「池は秘密を隠しているから」
「秘密って何?」
「例えば、形あるかなしみとか」
「・・・・僕は『知らない人が、あれこれい親なことを言ったり、笑ったりするかもしれない』。そういわれたことがある。僕はその時、信じていた人にやさしい言葉で刺されたような気持ちになった。知らない人に笑われて傷つくよりも、ずっと痛かったはずだ」
「何もなかったなら、かなしみを混ぜて夜のスープにしてしまおう」
「底が見えるような池にも秘密があるように、私たちはそんなに単純じゃない。だけど少なくとも、かなしいかどうか決めるのは私たち自身よね」
いくつかそんな会話を抜き出してみましたが、この調子なのです。
こんな高校生男女なんていますか?
私は、この文章を読みながら、戦前の私小説作家の文章と村上春樹を合わせたような匂いを感じました。
調べてみると、著者の村松凪氏は、1985年生まれ、自身の見た夢に基づき始めて書いた小説が、この「寂しがり屋の森」という短編集だそうです。
さて、別の日、美術の時間に、鏡を見て「自分を見つめて、ありのままを描きなさい」という課題が出ます。
「それは、彼にとって残酷な宣告だったように思う」とあり、鈴木君は何も描くことができませんでした。
ここまで読み進めると、こんな読解にいたるでしょう。
・鈴木君は美術の道に進みたい
・それを証明するため、美術館に飾られる栄養を手に入れるつもりだ
・だが、いろいろ青春特有の迷いがある
そして、次に謎の文章が登場するのです。
「鈴木君には顔がない。鈴木君の顔は透明なのだ。」
なるほど。筆者は、進路に自信が持てない彼の様子を、「顔がない」と隠喩表現しているのだな、と解釈します。
しかし、こう続くのです。
インビジブルマンシンドローム、透明人間小国軍ともいわれている。倦怠感や気力の低下などを訴える人もいるけれど、頭頂部から首の付け根までが見えなくなること以外の症状はほとんど見られず、本人確認に難があること以外は、日常生活に支障はない。まだその原因がはっきりとわかっていない思春期特有の病気で、急速に進行するものの、そのほとんどが成人を迎えるまでに自然治癒する。
そんな病気は聞いたことがないけれど、きっとあるんだろうな。頭頂部から首の付け根までが見えなくなるって、自分に見えなくなるっていうことかな。心の病ですね、きっと。そうか、鈴木君は、思春期特有の心の病なのか。
そう解釈するのですが、1点だけ、引っ掛かるのです。
「本人確認に難があること以外は」とありますが、自分で自分の顔が見えなかったとしても、自分が本人であることは確認するまでもないですよね。よくわからないけれど、スルーしましょう。
こうして最後まで読み終わりました。
鈴木君の顔が透明だったり半透明になったりする描写が何度も出てきます。それが作者なりの鈴木君の心理状態や心の病の状況を示す手法なのでしょう。
そのように読解をすすめ、解答に移ります。
問6にこうありました。
「彼にとって残酷な宣告だったように思う。とありますが、「私」はなぜ「残酷な宣告」と思ったのでしょうか。考えられるものをすべて選び、記号で答えなさい。」
そして選択肢のオがこうなっているのです。
「顔が透明になってしまっている鈴木君には、ありのままを見つめるような課題は無理だと思ったから」
あれ、もしかして?
そうなのです、鈴木君の顔は、言葉通り透明になっているのです。
invisible man
透明人間という意味ですね。
「インビジブルマンシンドローム」というのは、作者がでっちあげた病名です。
頭だけが透明人間になるという病気なのです。
「本人確認に難があること以外は」と言う部分は、スルーしてはいけなかったようです。なにせ頭部が透明だと、周囲が本人確認できませんから。
ということは、冒頭の「黒板がよく見える」というのは、頭が透明だからよく見えるという言葉通りの意味だったのですね。
つまり、この文章はファンタジーだったのです。
これは反則です。
ファンタジーには、掟があるからです。
読者がファンタジーであることを最初から知っている
これが掟です。
例えば、推理小説の1ジャンル、密室殺人のミステリーを読んでいたとしましょう。
あれこれ謎を推理して頭を悩ませていると、「実は犯人は壁に異次元に通じる穴をあけることができる魔法使いでした」という結末に、納得しますか?
いわゆるSFの世界には、「夢オチ」「宇宙人オチ」という二つの禁じ手があると聞いたことがあります。いろいろな謎が展開していき、最後に「実は夢でした」「実は宇宙人でした」というのはダメだということだそうです。
さて、この小説を書店で購入し読む場合、最初からファンタジーであることを知っています。だから何も問題は無いのですが、入試問題の抜粋文章で、「実は頭だけ透明人間だったのです」は無いでしょう。
この文章をチョイスした国語の先生には抗議したいところですが、まあ、入試問題ではよくある話ですからね。
過去にも、ラストシーンでウミガメになってしまう少年の話や、団地の屋上でキリンを飼う少年の話などが出題されています。
違和感を感じたら、「ファンタジーかもしれない」と疑うことも、読解のスキルの一つです。
毎日、バラバラになっている人間を見ています。
大問2の書き出しの1行です。
一瞬そう思ってしまいますが、この文章はパレスチナ問題についてのエッセイです。
永井玲衣氏による「世界の適切な保存」からでした。
そういえば、今年の渋谷幕張1次でも、永井氏の「水中の哲学者」からの出題がありましたね。さらに、今年の開成でも、永井氏の「世界の適切な保存」から出題されました。
幸い?にして、開成と普通部は全く違う箇所からの出題でしたが。
こうして出典がかぶるのって、学校の先生はどう思うのかな? 私なら嫌ですが、国語の場合は仕方がないのでしょうね。
永井玲衣氏1991年生まれの「対話する哲学者」だそうです。
実は、永井氏は「東進ハイスクール」の講師でもあります。
いちおう入試問題には、塾・予備校の講師の文章は使わないという暗黙のルールがあったはずですが、もう消えたようです。
(全く同じコメントを過去に書いているのですが、どの回だったのかさっぱり思い出せません。去年にどこかの学校で出題があったはずです)
流行、というほどのムーブメントではありませんが、いわゆる古典的な作家以外の方の文章を使うという流れが確実にあると思います。
古典的な作家というのは、小説や随筆等を、雑誌に掲載し、書籍化する、そうした活動をしている作家です。
そうではなくて、例えば永井氏のように、組織に属さずフリーランスで活動したり、ミュージシャンとコラボしてみたり、哲学カフェを実施したり。従来の「学者」の枠組みには入らない活動をしているような方の文章を見かけるようになりました。