今回は、帰国生入試を考えている方にとっては耳に痛い話題です。
実は帰国生入試の国語は簡単ではないのです。
2025 海城中 帰国生入試 国語の出題
大問1は、物語文です。
山下紘加「可及的に、すみやかに」からの出題でした。
この方は、今注目の若手作家だそうです。
◆「わたし」は夫との離婚を機に実家へと戻り、自分の両親、7歳の息子とともに暮らしている。
まずこの設定から読解の困難さが予想されます。
感情移入ができないからです。
・母親の一人称で語られている
・設定が自分の環境とあまりに違う(たぶんですが)
文章の内容は特段ドラマティックな展開があるわけでもなく、日常のエピソードが少し語られているだけです。
しかし、そのどれもが、母親のいらだち、子どもに対する八つ当たり、そうしたものに満ちているのです。
「・・・わたしはいつも息子の発言をないがしろにする。投げやりにし、後回しにする。」
「呆れて、勝手にしなさいと怒鳴る。」
こんな表現ばかりです。
7歳の息子が母親に恥をかかせたといっては怒り、言うことを聞かないといっては怒鳴り、自分の両親にまで当たり散らします。
世間的には「あるある」の話なのかもしれませんが、文章全体に滲む「いらいら」に、読む気が私は失せました。
これを小6男子がどこまで理解して読解できるのか疑問です。
記述は1問です。
息子が、母親から国語の辞書をもらったのです。母親が、昔自分の母からもらったがほとんど使っていなかったものです。渡した理由は、子どもの言葉に対する知的興味に応える寛容さを持っていなかったからです。7歳の子どもが辞書を使いこなせるはずもなく、ほとんど開かれなくなりました。しかし息子はこの辞書を持ち歩くことにこだわります。母親に怒鳴られても持ち歩くことをやめないのです。
なぜかたくなに持ち歩こうとするのか、その理由について80字以内で説明する記述でした。
普通なら、「母親からもらった大切なものだから」という解答になるのですが、この文章ではそうとはいえません。
辞書を持ち歩くと、周囲の大人から「かしこい」と褒められるのです。つまり、辞書は「褒められる」ツール、「かしこい」と威張れるアイテムなのです。
実は文章中にほぼ答となる表記があるので、そこをまとめるだけで合格点はもらえます。
さらに深読みすると、息子は、一番評価されたい相手=母親から相手にされないからこそ、他人に評価されたい、つまり愛情不足だと読み取れます。
そこまで読解できればパーフェクトですね。
ところでこの母親は、息子が、かしこくもないのに「かしこい」アピールすることを嫌悪しています。
息子に対する愛情は皆無なのかと思わされます。
もしかして作者は、母親は無条件で無償の愛を子どもに注ぐもの、という世間的な「決めつけ」の幻想を描きたかったのかもしれません。
私は原著を読んでいないので何ともいえません。残念ながら読むことはないと思います。
大問2 エッセイ
「日常は哲学的な瞬間に満ちている。よくよく考えるとそれって何なんだと思えるような瞬間、条理が異化されてしまうような瞬間、それをわたしは「哲学モメント」と名付けて収集してきた。」
冒頭がこれです。
嫌な予感しかしませんね。
さらに筆者は「天気予報」について蘊蓄、というよりは「屁理屈」を展開します。
筆者によると、「冷蔵庫も、ほんの少しだけ神的なるものの感触がある」のだそうです。
筆者の永井 玲衣氏は、立教大学の講師であり、「対話する哲学者」として注目されている方なのだそうです。ところで、東進ハイスクール講師も務めているようです。
塾・予備校関係者の文章は入試には使わないのが暗黙のルールだと思っていましたが、違うのですね。
「 ・・・・もうすでにこの世に生まれ落ちた「わたし」が、父母を閉じこめることによって、もう一度孕まれることを望んでいる。・・・・そうした矛盾を抱えた願いがこぼれ落ちるほどに、何かに対して「わたし」は切実なのだ。黒板にまっすぐに引かれる時制をあらわす矢印を、ぐるりと旋回させて、円にしたい瞬間があるのだ。」
私には筆者の言いたいこと・書きたいことがさっぱりとつかめませんでした。
何となく「こういうことかな?」レベルまではわかるものの、読解を生業とする私にとって、そのレベルの理解では何も理解できなかったのと同義です。
おそらく、筆者は物凄く頭の良い方なのだと思います。筆者の脳内では、すべてがクリアに見えているのだと思います。それを読み取れない私はただの凡人だということにすぎません。
正直に告白すると、私はこうした文章が大嫌いです。
読者にわからせようとする努力が見られないからです。
この文章を小6男子に読解させるのですね。
断言できますが、彼らにはさっぱり意味がわからないことでしょう。
記号選択も易しくはありません。
「そんな語りは、神のふるまいというよりは、むしろ地を這う人間のもがきのようにも見える」を説明した選択肢を選ぶような出題ですから。
記述は1問です。
「哲学モメントは、つねにあるのに、つねに隠されている。つねに隠されているのに、つねにあるのだ」とあるが、どういうことを言っているのか。「カレンダーをめくる行為」を具体例として取り上げたうえで、「哲学モメント」がどのような瞬間であるかを明らかにしながら120字以内で説明しなさい。
文章中に「カレンダー」について触れた部分はあるものの、それをまとめるだけでは正解にいたりません。
筆者のいう「哲学モメント」を理解している必要があるのです。
実は、「エッセイ」の読解は難易度が高いのです。
物語文なら、場面・舞台・時間経過・登場人物・心理の変化、そうしたものに注目して整理していくという「読解のセオリー」があります。
論説文なら、そもそも何かを読者に「説明」することを目的としていますので、使われている語句の難しささえクリアしてしまえば、読解は容易です。
しかしエッセイはそうはいきません。
さほど「言いたい」ことがあるわけでもなく、「書きたい」衝動に駆られているわけでもなく、ただ何となく書かれた文章ばかりだからです。
もしかして、依頼された原稿の升目を埋めるだけが「執筆動機」なのかもしれません。
それでも一般に「小説家」のエッセイや、「エッセイスト」の書くものは、平易な言葉を使って「読みやすく」する工夫がみられるので難しくはありません。
ただし、こうした「読みやすいエッセイ」は、引っ掛かりのようなもの、文章を読みながらふと立ち止まるような部分が無いため、国語の入試問題には不適です。
要注意なのは、「学者・専門家」の書くエッセイなのです。
もちろん中には、専門的な内容をわかりやすく書く能力に優れている方もいます。例えば、霊長類研究の第一人者である山極壽一氏ですね。だから氏の文章は入試にこんなに使われているのです。
学校が帰国生に求めるもの
一般入試では、「4教科をきちんと学んできた」ことが求められます。
その「学び」の深さは、学校が求める生徒像と重なります。
これは、必ずしも偏差値と同じというわけではありません。
高偏差値の学校なのに、基本問題しか出題しないところもあれば、その逆もあります。
いずれにしても、「4科目の到達点の高さ」を測定するのが一般入試の基本です。
算国理社、それぞれ測定するものが異なり、評価するものさしも異なります。だからこそ4科目が入試として必要だといえるのです。
しかし、帰国生入試は異なります。
この海城中の試験科目は、算国+面接か、算国英+面接の2択です。
つまり、面接を除けば、算国の2科目で受験生の実力を測定しなくてはならないのですね。
そこには、「海外だから国語は勉強できなかったよね。可哀そうにね。だから国語はうんと易しい問題にしてあげるからね」などという配慮は存在しません。
あくまでも、「わが校にふさわしい学力が備わっているかどうか」を測定するだけです。
「帰国生なんだから国語ができなくても仕方がない」というのは、あくまでも受験生側からの発想であり、ただの「甘え」であることは自覚しなくてはなりません。
むしろ、「帰国生だからこそ国内一般生よりも高度な国語力が求められる」と考えるべきなのです。
★海城中の帰国生入試は、英語もまた高度です。
ぜひこちらの記事をごらんください。