中学受験のプロ peterの日記

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【中学受験】古墳の学習をクリアして歴史好きになろう

昨年、こんな記事を書きました。

peter-lws.hateblo.jp

いきなりですが、クイズです。

古墳とコンビニ、どちらが多いかわかりますか?

 

古墳はおよそ16万基、コンビニは5.6万店舗ほどだそうですので、およそ3倍の開きがありますね。

街のどこにでも見かけるコンビニの3倍もの古墳があると考えると、みなさんが気が付いていないだけで、近所の散歩コースにも複数の古墳があるのかもしれません。

(タイトル背景写真は、神奈川県の住宅地にあるちょっとした児童公園内の古墳です)

今回は、古墳の学習の重要性と、古墳マメ知識についてあれこれ書いてみます。

 

古墳時代の重要性

 

中学入試において、実は古墳がらみの出題はそう多くはありません。


◆大山古墳(仁徳天皇陵

箸墓古墳

◆稲荷山古墳

◆江田船山古墳

石舞台古墳

◆富雄丸山古墳

高松塚古墳

キトラ古墳

藤ノ木古墳

 

出題される可能性のある古墳はせいぜいこの程度です。それぞれが重要なのには理由があります。

◆大山古墳(仁徳天皇陵

いわずとしれた、「日本最大の」古墳です。全長約486mの前方後円墳です。

 

クフ王ピラミッド、始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓などという人もいますね。

もっとも、日本で広く流布する、「世界三大〇〇」の類のほとんどは日本人考案です。「三大〇〇」好きは江戸時代の暇な町人由来という説もありますね。

「寛政の三奇人」といえば、林子平高山彦九郎蒲生君平ですし、喜多川歌麿には「寛政三美人(当時三美人)」と題した美人画があります。

 

築造されたのは5世紀中ごろとされています。

この古墳は名称が少々やっかいです。

大仙古墳、大仙陵、大山古墳、大山陵、大千陵、大川陵、大仙陵古墳、仁徳陵古墳、仁徳天皇陵、百舌鳥耳原中陵、仁徳御陵、伝仁徳天皇陵など、実に様々な呼称があるのです。

 

明治時代に、古事記日本書紀を主要な根拠として、日本の主な古墳を天皇の系譜と結びつける作業が行われました。厳密な発掘調査や年代測定の結果を反映したものではありません。

その後戦後まで、天皇にまつわる研究は「タブー」でしたので、調査研究は停滞します。その後も天皇陵に比定された古墳の調査はできないのが現状です。

そのため、天皇陵の中には、年代と被葬者(とされる天皇)が大きくずれているものもあるのですね。

仁徳天皇陵」もその一つです。

厳密な発掘調査が行われていませんので確定はできないのですが、この古墳は5世紀中ごろのものではないかとされています。仁徳天皇は4世紀の天皇ですので、1世紀近くのずれがあります。

 

そこで、「仁徳天皇陵」という呼称から、「大仙古墳」「大山古墳」と呼ぶようになりました。

おそらく1990年代に教科書表記が変わったと思います。

それ以前に学校教育を受けた方は、「仁徳天皇陵と習った」でしょうし、それ以降は「大仙(大山)古墳と習った」と思います。

 

ちなみに、こうして被葬者が確定できない場合は、地名で呼ぶのが習わしです。

この古墳があるのは「大仙町」ですが、江戸時代には「大山」と呼ばれていたようです。

そこで「大仙古墳」「大山古墳」(どちらも読みはダイセン)の表記があるのです。

どうしても仁徳天皇の名を使いたい場合は、「伝仁徳天皇陵」というように表記しました。「仁徳天皇の墳墓だっていわれてるけど、わかってないんだよね」といった意味ですね。

 

こうして、問題は解消した(はずだった)のです。

 

ところが、2019年に、「百舌鳥・古市古墳群‐古代日本の墳墓群」が世界遺産に登録されたのですが、そこでは「仁徳天皇陵古墳」として登録されてしまったのです。

いわば「仁徳天皇の墓だ」という主張にユネスコがお墨付きを与えてしまった形です。

 

そこで現在では教科書でも、「仁徳天皇陵古墳」との表記が見られるようになったのですね。

 

ところで、UNESCOではどのような英語表記なのか気になって、World Heritage List をチェックしてみたところ、Mozu-Furuichi Kofun Group: Mounded Tombs of Ancient Japanとなっているだけで、個々の古墳名は見つかりませんでした。

 

個人的には、学習者の混乱を招かないような呼称に統一してほしいと思います。

箸墓古墳

ここでは、県立橿原考古学研究所のHPの説明をそのまま引用します。

 箸墓古墳は、奈良盆地東南部、三輪山を間近に望む桜井市箸中にある。全長約280㍍の墳丘規模を誇る前方後円墳である。内部構造や副葬品などは全く不明だが、古墳編年の上で最古段階に位置づけられ、古墳時代の始まりを示す記念碑的な存在として重要視されてきた。名実ともに列島で最初に築かれた巨大前方後円墳であり、その圧倒的な大きさは王陵と呼ぶにふさわしい。
 箸墓古墳の重要性をいっそう高めているのは、それが纒向(まきむく)遺跡の一画に存在する事実であろう。纒向遺跡古墳時代の初めにもっとも繁栄した巨大集落であり、日本最初の「都市」あるいは初期大和政権最初の「都宮」とも評され、畿内邪馬台国の有力比定地でもある。

www.kashikoken.jp

邪馬台国がどこにあったのかについては、歴史好きならご存じの論争が続いています。新井白石の頃から論争しているそうですね。

大まかにわけて、北九州説と畿内(大和)説があり、どちらも説得力があるものの、どちらも決め手に欠けているのが現状です。

聞いた話では、考古学・歴史学の研究者は「邪馬台国には手を出すな」と先輩・教授から忠告されるそうです。ここに手を出すと、学会にいられなくなるぞ、という意味でしょう。

それほど「曖昧」で「怪しい」根拠を振りかざして、多くの自称歴史学者や歴史マニアたちがこの論争に参戦しているのですね。

しかし、私たちは「アマチュア」ですから。おおいにこの論争に参戦して楽しむのも良いと思います。

近年、纏向遺跡での大型建造物跡の発見も相次ぎ、大和説が盛り上がっています。そうすると箸墓古墳卑弥呼の墓なのかもしれません。

残念ながら、こちらも宮内庁の管理で、発掘調査ができません。

宮内庁によると、倭迹迹日百襲姫命の墓なんだそうです。

誰だろう? というか読めないぞ!

やまとととひももそひめのみこと は、第7代孝霊天皇の娘なんだそうです。

日本書紀によれば、孝霊天皇は紀元前290年に即位し、128歳まで生きたそうです。

いわゆる欠史八代の一人です。

◆稲荷山古墳

ここは、埼玉県の「さきたま古墳群」の一画にあります。

古墳上部から1968年に出土した鉄剣の文字が判明したのは10年後です。

 

亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

 

表裏合わせて115文字が見事に金象嵌されているのですね。

以前は古墳公園内の「埼玉県立さきたま史跡の博物館」に実物が展示されていたのですが、現在はケース補修のため展示されていないようです。

 

さて文字の内容は、簡単に言ってしまえば、「ヲワケという人物の先祖が代々、武官の長として大王に仕えてきたこと。また、ヲワケがワカタケル大王の補佐をした功績を記録するため、「辛亥の年」に剣を作らせたこと」が記されているのです。

他の研究で、この「ワカタケル大王」が、日本書紀雄略天皇であることは確実視されています。

ちなみに、ここに刻まれた「辛亥の年」は、471年ですが、60年毎にめぐってきますので、例えば「辛亥革命」の1911年もそうです。

◆江田船山古墳

明治時代に発掘調査が行われた熊本県のこの古墳の鉄剣にも75文字の文字が刻まれていました。しかしところどころ読めない状態だったのです。

獲□□□鹵大王 この文字が、稲荷山古墳の獲加多支鹵大王の文字によって、同じワカタケル大王であることが判明したのですね。

 

この二つの古墳により、当時の大和政権の勢力が、熊本から埼玉まで届いていたことが裏付けられたのです。

石舞台古墳

墳土を全て失い、石室の巨石がむき出しになった威容を見せる古墳です。

使われている30数個の岩の総重量は約2300トンです。また天井の大石は約77トンですから、いったいどうやって運搬して構築したのか、当時の土木技術の水準と、これを作らせた者の権力の強さを目の当たりにできる貴重な古墳ですね。

一説には蘇我馬子の墓であるともいわれています。

一般に見ていてもつまらぬ古墳ですが、これはお薦めです。

◆富雄丸山古墳

奈良県にある4世紀後半の巨大な円墳で、109メートルもあります。

2023年に、これまでに出土例のない異形の銅鏡(盾形)と、国内最大となる蛇行剣が発見されたことが話題となりました。

この蛇行剣は、刃の全長237センチメートルもあるのです。

さらに、「卑弥呼の鏡」などとよばれる三角縁神獣鏡も2024年に出土しました。

4世紀という、大和政権成立過程にとって重要な、しかも中国文献がないことから「空白の4世紀」と呼ばれる時代の古墳ですから、大きな話題となったのも当然ですね。

 

高松塚古墳

藤原京時期の古墳です。盗掘にあっていたため見るべき出土品はありませんが、なんといっても色鮮やかな壁画の発見は衝撃的でした。

壁画は、男子群像、女子群像、四神等が描かれていましたが、とくに女子群像が色彩鮮やかであることから、「飛鳥美人」などとよばれていました。

残念ながら保存に失敗し黴に浸食されたため、石室の壁から剥がされています。

 

キトラ古墳

7世紀末~8世紀初の円墳で、規模は大きくはありません。

この古墳が一躍有名になったのは、高松塚古墳とならんで2例目とされる、壁画の存在が確認されたからです。

東壁に青龍、南壁に朱雀、西壁に白虎、北壁に玄武の四神が描かれ、その他には十二支、天文図、日月が描かれていました。

藤ノ木古墳

奈良の法隆寺近くにある、6世紀後半の大型円墳(直径48m)です。盗掘を免れていたため、豊富な副葬品が出土したことで知られています。

 

★大切な視点

古墳の時代について学ぶときには、つい「卑弥呼の墓はどれだ?」「副葬品がすごいな」といったあたりに興味が向きがちですが、受験生が学ぶなら、大切な視点といものがあります。

 

◆古墳はどのような場所に作られたのか?

◆なぜこのような巨大な「墳墓」が作られたのか?

◆なぜ古墳はつくられなくなっていったのか?