そろそろ小学校によっては修学旅行に行くシーズンとなりました。
感触では、夏前の5月~7月が一番多いような気がしますが、9月~10月に行く学校も多いですね。
親としては、受験が近づいてピリピリし出す秋より、夏前のこの時期のほうがいい、そう考えている方もいるかもしれません。
今回は小学生にとっての修学旅行について考えます。
1.修学旅行の行き先
東京・神奈川の小学生の修学旅行の行き先は、ほぼ日光1択で間違いないでしょう。
統計をとったわけではありませんが、生徒達に聞いても、他の地名があがった試しがありません。
〇ほどよく遠く、かつ遠すぎない
〇歴史の学びに結びつく
〇JRの駅からなら専用列車で行くことができる
〇受け入れ施設が充実している
だいたいこういったところが理由でしょうか。
生徒には例年、「私に土産は買ってこないように!」と申し渡します。
限られたお小遣いの中で、私ごときに予算を費やすより、お父様やお母様を優先しなさい、という趣旨です。
そうでも言わないと、私のデスクまわりに、葵の紋章の入った印籠が溜まるだけですので。私が歴史好きと知っているのでしょう。将軍の名前が印字された湯呑ももういりません。
調べていると、どこの地域の小学校かはわかりませんが、「東京ディズニーランド」という行き先も人気だとありました。
それは子どもにとっては大人気でしょうけれど、いったい何を「学ぶ」修学旅行なのかは意味不明です。遊園地のオペレーションの見事さや収益モデルを学ぶのかな?
まあ、固いことを言うのはやめましょう。
小学6年生の思い出として、ただ楽しめばそれでよいのかもしれません。
とくに中学受験をする子供たちにとっては、おそらくこれで付き合いが途切れる(場合が多い)同級生たちですので、思い出は多いほうがよいと思います。
残念なことに、私自身を振り返っても、小学校で修学旅行に行った記憶が無いのです。おそらくはそうしたイベントがない小学校だったのかな? いちおう東京都だったのですが。
2.修学旅行の意義
私の私見(ほぼ偏見)では、意義などありません。
ただの旅行です。
そこに生半可な「意義」を持ち込もうとするから、話はややこしくなるのです。
中高の修学旅行についてはこちらで考察しました。
ただし、親元を離れて、小学校の同級生たちと、普段とは違うところに行き、違うことをする、そのことには大きな意義があると思います。
非日常体験ですね。
つまり、どこに行くか、何をするのか、これらはどうでもよい、といっては言い過ぎですが、プライオリティは高くはないと思います。
行くことに、参加することにこそ意義がある、それが小学校の修学旅行というものなのでしょう。
3.休むことの是非
もちろん、体調やその他の事情で修学旅行に参加しない(できない)という場合もあろうかと思います。ここでは、そのことについて論じるわけではありません。
修学旅行に参加できるはずなのに、あえてご家庭の方針として参加させない、そのことの是非を考えてみたいのです。
そして、その方針(理由)というのが、「中学受験勉強が忙しいから」というものの場合について考えてみたいと思います。
多くの方は、そんなご家庭がいるの? と疑問を持つと思います。
しかし、毎年いるのです。
1人だけ、修学旅行に参加せずに塾に来る生徒が。
「あれ、君は〇〇小学校だったよね。」
「ええ。」
(ああ、修学旅行より塾を優先したんだ)
事情はすぐに察せられますので、もちろんそれ以上は追求しません。本人の意志ならよいですが、まずそれはないでしょう。親の意志により、修学旅行に行かせてもらえなかったという事情でしょう。ここは何食わぬ顔で授業をすすめるだけです。
もし事前にご相談があったら、私の答は決まっています。
「優先順位は、小学校の生活に決まっています。修学旅行を受験勉強のために休むことには反対です。」
しかし、事前のご相談がない場合には、もう私の手の及ぶところではありません。
もちろん、小学校の普段の授業等の学校生活が、無駄が多く、受験勉強の妨げにすらなる場合があることは承知しています。
しかし、そうした無駄と思われる部分も含めての小学校生活だと思うのです。
極端な話、小学校を全て休んで、ひたすら塾と家庭での受験勉強にあてる、そうした生活で果たして健全といえるのでしょうか。
考えればわかりますね。
せめて、小学校生活最高の思い出づくりを阻害してほしくないと思っています。
中学受験には、1分1秒も無駄にできる時間などない。
日頃そう話しています。
しかし、修学旅行については、「無駄な時間」とは思いません。
小学校生活の総集編ともいうべき大切なイベントだと思うのです。
ところで、周囲の大人数人に、小学生時代にどこに修学旅行に行ったのか、そしてそのことをどれくらい覚えているのか聞いてみました。
行先は、全員が日光でしたね。
そして、どんなことを覚えているのか聞いてみたのですが。
「いろは坂を覚えています。バスに酔って大変でした。」
「華厳の滝を見に行ったら、水不足で滝が枯れていたのを覚えています。」
「鳴き竜の下でひたすら手を叩いた。」
こんな答えが返ってきました。ところで、東照宮はどうでした?
「ああ、もちろん行きましたよ。」
それで、どう思いましたか?
「ああ、東照宮だなあって。」
陽明門はどうでした?
「たぶん、見てないと思います。」
そんな訳、あるかい!
まあ私が聞いた周りの大人がいけなかっただけだと思います。
おそらく、学校で事前に日光や東照宮について、きちんと歴史をふまえて勉強しているはずですけれどね。
このように、どうせ覚えていられない、たいして勉強にもならなかった、だから修学旅行は不要だ、というのはあまりにも短絡すぎます。
何かを得なければ、覚えていられなければ、旅行なんて行く価値はない、そう思いますか?
その年齢、その時、その仲間、その場所。その瞬間でしか味わえない「何か」というものは確かにあると思います。
それだけでも、修学旅行は行く意味があるのでしょう。